臨済宗中興の祖 白隠禅師 | 墓守たちが夢のあと

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歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

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煩悩と同じ108枚ある石瓦の山門

 
 沼津市原の「松陰寺」は、鎌倉時代中期の弘安2年(1279)に創建。臨済宗中興の祖である白隠禅師が住職を務めた寺として知られています。
 
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白隠禅師の墓
 
 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」といわれた白隠慧鶴は、元禄12年(1699)に松蔭寺にて得度し諸国行脚。享保2年(1717)に帰郷すると松蔭寺住職となり、富士山宝永大噴火で荒廃した寺の復興を図ります。
 禅の民衆化・革新に尽力した白隠禅師のもとへは多くの門弟が集ったと伝えられ、当時衰退していた臨済宗は勢いを取り戻したことから、白隠は「中興の祖」と呼ばれています。
 白隠禅師は、禅を広く民衆に広めるために、その教えを表した絵や書を多く残し、その独特の表現法は現在でも高く評価されています。明和5年(1768)に松蔭寺にて亡くなり葬られています。
 
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「白隠禅師塔所」の碑
 
 白隠禅師の墓の近くに「白隠禅師塔所」と刻まれた巨大な碑が建立されています。本堂から背を向ける形で立っているのは、墓所に接している東海道本線の電車の窓から見えるように配置されたためで、白隠禅師の墓がここにある事を広く知らせるために、真珠王として知られる御木本幸吉が寄贈したものだそうです。
 
静岡県沼津市原128番地