初代三遊亭圓朝 | 墓守たちが夢のあと

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歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

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三遊亭圓朝の墓所

 
 谷中にある全生庵には、落語中興の祖で名人とうたわれた初代三遊亭圓朝の墓があります。寺を創建した山岡鉄舟が圓朝の禅の師匠という縁から全生庵に葬られたそうです。
 
 
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三遊亭圓朝の墓

 
 幕末から明治時代にかけて活躍した初代圓朝は、天保10年(1839)に初代橘屋圓太郎の息子として江戸湯島切通町で生まれ、弘化2年(1845)に初高座。その後、父と同じ二代目三遊亭圓生の門人となり、安政2年(1855)に圓朝を名乗り真打に昇進しています。
 
 圓朝は、歴代名人の中でも別格とされるほど落語が巧かったと言われ、多くの落語演目を創作。人情噺や怪談噺など、笑いが無く、講談に近い独自の世界感を築きあげていきます。二葉亭四迷は『浮雲』を書いた際に圓朝の話し方を参考にしたと言われ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼしています。
 
 
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圓朝の碑

 
 なお、初代圓朝が数々の新作落語を発表した背景として師匠の圓生が、その才能に嫉妬して圓朝が演ずる予定の演目を先に演じてしまうという嫌がらせをし、そのため他人が出来ないオリジナルの作品を造ったと言われています。
 
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三崎坂

 
初代三遊亭圓朝
 
 全生庵の前から千駄木駅に下る道で、不忍通りを挟み団子坂の反対側に突き当たる坂を「三崎坂」(さんさき)と言います。
 地名の由来には諸説ありますが,駒込・田端・田中の三つの高台に因むとも言われています。安永2年(1773)の『江戸志』によると,三﨑坂の別名は「首ふり坂」と呼ばれ、その昔、この坂の近所に首をよく振る僧侶がいたと言われています。
 この坂がある三崎町は、円朝が創作した「怪談牡丹燈籠」の舞台となった場所です。この坂でカランコロンと幽霊の下駄の音が響き渡っていたのでしょうか。
 初代圓朝は怪談噺の参考にと幽霊画をコレクションしていたそうで、死後、全生庵に寄贈されています。毎年8月に開催されている「谷中圓朝まつり」では、この幽霊画が一般公開されています。
 
台東区谷中5-4-7