光則寺の山門
日朗上人土の牢
関谷光則の墓
宿屋は北条得宗家に仕えていた役人で時頼の臨終の際に最後の看病を許されるなど信頼の厚い人物だったそうです。
日蓮宗を興した日蓮は、文応元年(1260)に『立正安国論』を書き著し、当時寺社奉行であった宿屋を通じて北条時頼に建白しますが、 その中で日蓮は浄土宗を批判していたため、信者の多い幕府への批判と受け取られます。そして、日蓮は佐渡へ流刑。弟子の日朗は宿屋光則に身柄を預けられ屋敷内の土牢に幽閉されてしまいます。
その後、宿屋は次第に日蓮の教えに帰依し、日蓮が赦免されると日朗を開山とし自分の屋敷跡に光則寺を建立します。光則寺の境内には日朗上人が幽閉された土牢と関谷光則の墓がありました。
神奈川県鎌倉市長谷3-9-7