渋川正清の墓。法号は涼岳院松月紹山居士
墓石に俗名は刻まれていませんが、寛政11年6月の命日で正清の墓と判明しました。
明和8年(1771)に天文方6代目渋川光洪が子供が無いまま亡くなったため、末期養子として家督を相続し天文方に任命されたのが渋川正清です。
正清は、光洪の甥にあたりますが、出身の川口家は天文学とは全く関係ない家柄でした。
渋川家は当主の急逝と養子縁組を繰り返したため、天文方筆頭という立場でありながら渋川正清には実質的な権限はありませんでした。
天文方は吉田秀長や山路主住によって運営され、先代、光洪の時代に京都の土御門泰邦主導で造られた宝暦暦に不備が多く、幕府主導で改暦作業(寛政暦)が行われた際も、天文方として迎えられた高橋至時を中心に行われ正清はほとんど関与していません。
渋川正清は寛政11年(1799)に亡くなりますが、跡を継いだのは正清の実家から迎えた養子の正陽であったことから、その立場は変わる事はありませんでした。
東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)