岩槻城主 太田氏資 | 墓守たちが夢のあと

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太田氏資の墓

 
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太田氏資像(芳林寺境内
 
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岩槻城跡(岩槻城址公園)
 
 名将・太田道灌が眠るさいたま市岩槻区の芳林寺は、道灌から数代後の当主、太田三楽斎資正が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したのが始まりで、資正の嫡男・太田氏資が地蔵堂から 「芳林寺」へと改称、母・芳林妙春尼を開山とし多くの合戦で亡くなった将兵が供養されたそうです。
 芳林寺の太田家の墓所には櫓に入った墓石があり、最初、こちらが太田道灌の墓かと思いましたが、よく調べたら太田氏資の墓であることが分かりました。
 太田氏資は、天文12年(1543)に岩槻城主太田資正の嫡男として生まれ、武勇に優れた武将でしたが、扇谷上杉家側として反北条氏の立場をとる父に対して、北条側に付くことを主張する氏資は対立を深めたため、氏資は一時出家します。しかし、家臣たちの画策により父・資正を追放し岩槻城主として権力を掌握しています。小田原北条氏に従い、北条氏政の妹を妻に迎えますが、永禄10年(1567)に里見氏との戦いで大敗した北条軍の殿を務め討死。享年25歳でした。
 ちなみに太田家はその後、北条氏政の三男北条国増丸が氏資の娘を娶って継承、岩槻城主として北条氏を支えます。しかし、早世したため実弟・氏房が兄の未亡人を娶って家督を継いでいます。
 氏房は天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐時には、岩槻城を家臣に任せ、自らは小田原城に籠城しています。氏房は夜襲をかけるなど活躍していますが、岩槻城は、小田原城開城に先立って陥落、北条氏滅亡後は、兄・氏直と共に高野山で蟄居した後、肥前に移され、そこで病死しています。
 
 
芳林寺:埼玉県さいたま市岩槻区本町1丁目7-10
岩槻城跡(岩槻城址公園):埼玉県さいたま市 岩槻区太田3-4