太田道灌 | 墓守たちが夢のあと

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芳林寺山門

 
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太田道灌像
 
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太田道灌の墓。意外に新しい
 
 埼玉県さいたま市岩槻区の岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、太田道真・道灌父子が築城したと伝えられています。
 名称・太田道灌は、永享4年(1432)に鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一門・扇谷上杉家の家宰を務める太田資清の子として生まれます。元服後は資長と名乗り、後に剃髪し道灌と号しています。
 道灌は、江戸城、岩槻城、川越城を築き、各地の乱を平定、また、和歌にも優れ、文武両道の名将として知れ渡ります。道灌の活躍により主家扇谷家の勢力は大きく拡大しますが、道灌の才能を恐れた当主・上杉定正は、謀反の疑いがあるとして、道灌を屋敷に招きだまし討ちにより殺害します。
 この時、父の道真と道灌の養子・太田資家(岩槻城主)が定正邸に赴き、遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われ、埼玉県越生町の龍穏寺とさいたま市岩槻区の芳林寺に分けられて埋葬され、今日まで供養されています。
 道灌を失った扇谷上杉家は、やがて衰退していき、代わりに台頭してきた北条氏により滅ぼされています。
 なお、芳林寺は現在、東日本大震災による本堂復興工事中です。
 
芳林寺:埼玉県さいたま市岩槻区本町1丁目7-10