「新聞の父」ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵) | 墓守たちが夢のあと

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ジョセフ・ヒコの墓

 
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濱田鋹子の碑
 
 ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵は幕末に通訳、貿易商として活躍すると共に、日本で最初に民間新聞を発刊したことから「新聞の父」も呼ばれています。
 天保8年(1837)に現在の播磨町古宮で生まれた浜田は、嘉永4年(1851)、13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。
 一年後に帰国のために香港まで行きますが、「異国船打払令」により同じように漂流民を日本へ帰国させようとしたアメリカ商船が砲撃された「モリソン号事件」の話を聞き断念。再度アメリカへ渡航します。
 アメリカへ帰った浜田は身元を引き受けた税関長のサンダースにミッション・スクールでの学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けます。ジョセフ・ヒコとは浜田の洗礼名です。この他、「アメ彦」の通称でも知られています。また、この頃にヒコは日本人として初めてアメリカ大統領(第14代フランクリン・ピアース)と会見したという記録も残っています。
 安政6年(1859)、22歳の時に、ようやく帰国したヒコは、領事館通訳を務めた後、貿易商に転じますが、尊王攘夷思想が高まる中、外国人や、その関係者の命が狙われていた事から、身の危険を感じ文久元年(1861)に一時アメリカへ戻ります。なお、この時、ヒコは当時のリンカーン大統領と会見したと言います。
 文久2年 (1862)に横浜へ帰り、再び米国領事館通訳の仕事を始めたヒコは、その後、商売を始め、元治元年(1864)に岸田吟香の協力を得て、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊します。これが日本初の日本語の新聞と言われています。ただし「海外新聞」は赤字であったため、数ヵ月後には廃刊となっています。
 明治以降は新政府へ仕え、大阪造幣局の創設や国立銀行条例の制定にも関わったヒコは、明治30年(1897)に心臓病のため東京の自宅にて61歳で死去。「国籍法」が整備されていなかった当時、日本人に戻る法的根拠が無かったことから、外国人として青山霊園の外国人墓地へ葬られました。ヒコの墓石には「浄世夫彦之墓」と刻まれていました。
 なお、ジョセフ・ヒコの墓へ、昭和31年に妻の濱田鋹子(ちょうこ)が合葬されています。墓の脇には合葬されたいきさつについて書かれた碑があります。
 鋹子の父は北白川宮能久親王の近臣松本七十郎で、二人が結婚したのは明治11年(1878)、鋹子18歳、ヒコは40歳の時でした。しかし、帰化のための法律がなかったためヒコは日本人名に戻れず、鋹子も夫の姓を名乗れなかったそうです。
 鋹子は昭和21年に86歳で亡くなり別の場所へ葬られていましたが、関係者の努力により10年後に合葬されたとの事です。
 
青山霊園・外国人墓地