杉田玄白の曽孫 杉田玄端 | 墓守たちが夢のあと

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 尾張藩医・權頭信珉の子として文政元年(1818)江戸に生まれた玄端は、江戸時代を代表する蘭学者で「解体新書」でも知られる杉田玄白の息子・立卿に師事した後、立卿の甥(玄白の孫)杉田白元の養子となって杉田家の家督を相続します。
 玄端は玄白を始め杉田家が代々務めていた若狭国小浜藩の藩医を務め、後に幕府お抱えの医師となって勝海舟ら幕府要人の主治医を務めています。また、蘭学者として外国奉行支配翻訳御用頭取となり、同僚の福澤諭吉らとも親交を結びました。
 明治維新後は、新政府へは出仕せず徳川家が開校した沼津兵学校付属病院で陸軍付医師頭取に就任。その後、明治8年(1875)には福澤諭吉の招きにより、慶應義塾医学所や慶應義塾付属診療所主任などに就任しています。
 
 
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