清和源氏・源義家の19代末裔と伝えられる吉和孫左衛門義兼は、草津村で魚などを商っていました。
草津城主児玉周防守は義兼の才能を見込み毛利家から預かっていた山中鹿介の娘・盛江(八重姫)と結婚させます。
その後、義兼は出世して大変な資産家となります。また、盛江との間には、長男の山中常祐(初代草津吉和屋彌右衛門)と次男の孫兵衛が生まれています。
江戸時代の豪商で、鴻池財閥の始祖・山中幸元(鴻池直文)は山中鹿助の息子であると言われていますが、一説には義兼の次男・孫兵衛(鹿助の孫)の事であると言われています。
義兼の墓は吉和屋(山中家)の菩提寺である草津の浄教寺境内にありましたが、昭和12年(1937)に海蔵寺境内に改葬されています。
海蔵寺:広島市西区田方1丁目1-3