改革に敗れ奇行を繰り返した松江藩六代藩主 松平 宗衍 | 墓守たちが夢のあと

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 松江藩六代藩主、松平宗衍(まつだいら むねのぶ)は享保14年(1729)に、第5代藩主・松平宣維の長男として生まれます。
 享保16年(1731)に父・宣維の死により家督を継ぐと、宗衍は悪化していた藩の財政を立て直そうと腐心します。宗衍が藩主となった時、僅か二歳であったため藩政は家老たちとの合議制で行われていました。藩主就任の翌年には、イナゴの大群の襲来によって農作物が大被害を受ける中、家老たちは重税を強いたため、領内で一揆が発生します。このため、宗衍は延享4年(1747)に家老による合議制を廃止し、親政を行うこととします。
 財政改革のため、宗衍は特産品の専売化、藩直属の金融機関である泉府方の新設など様々な政策を打ち立て、一時期は財政再建が成功したと思われましたが、改革の最中にも天災が相次ぎ、さらに藩内で改革に対する反対派が力を盛り返してきます。宝暦10年(1760)には、幕府により比叡山山門の修築が命じられ藩財政は破綻状態となります。このため、人々は「雲州様(松江藩主)滅亡」とまで噂していました。
 明和4年(1767)、改革に失敗した失意から次男の治郷に家督を譲り隠居しますが、一説には改革失敗の責任を家臣団から問われたためとも言われています。安永6年(1777)には出家して天明2年(1782)に死去。享年54歳でした。
 隠居後の宗衍は失意からなのか奇行を繰り返す事が多かったといいます。色白の美しい美女の背中に花模様の刺繍を彫らせ薄い白衣を着させて、うっすらと透ける背中の刺繍を見て喜んだといわれ、その女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれていました。しかし、女性が年をとり肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとしますが誰も応じなかったといいます。
 また、江戸の赤坂にある藩邸に、天井から襖まで妖怪やお化けの絵を描いた化け物部屋を造り、夏の暑い時期は一日中そこにいたとも言われています。
 
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寿蔵碑(大亀)
 
 衍公の墓の脇にある寿蔵碑の土台になっている大亀には伝説が残されています。亡くなった藩主を偲び造られた亀の石像が毎晩動き出し蓮池の水を飲んだり松江の街を徘徊し人々を喰らったため衍公の功績を刻んだ石碑を背負わせて封じ込めたというもので小泉八雲の著書「知られざる日本の面影」で紹介されています。
 
月照寺「松江藩主松平家墓所」:島根県松江市外中原町179
撮影日:2013年10月26日