西国街道は2号線のすぐ上を通っている、一貫田の集落に入って来た。一貫田は間の宿として
栄えた所といわれる
「広島市保存樹イチョウ」「広島市保存樹タラヨウ」の二枚の看板、大きいのが「タラヨウ」だろう
街道は「安芸山陽道」となっている、先には「旧山陽道鳥上の一里塚跡」があった「中野砂走の
出迎えの松」がある、参勤交代を終えた藩主を家来や村の有志たちがこの松のあたりまで出迎え
たという、右に春日神社の参道が伸びる
家並みも増え交通の量も増えて来た、広島が近いのが分かる、海田宿に入る所に旧山陽道
(西国街道)変遷の案内板がある、千葉家住宅がある、案内板によるとここには御茶屋(本陣)
や、脇本陣の代わりとして上級役人などが休泊することもあった、その先に三宅家住宅
左の常夜灯は春日神社参道の導きか、その先にも常夜灯、細い道を登って行くと船越峠になる
峠と言ってもアスファルトの大きな交差点、広島市内に入るにはこの峠を越えねばならなかった
三本松、西国街道沿いに植えられた松の名残で、豊臣秀吉が名護屋からの帰りに広島に立寄り
並木松を植えさせたとの伝説がある
「我羅我羅橋」橋の名前の由来はがら竹という小竹を束にして作った竹橋だったためとも橋を
渡るときガラガラ音がしたためともいわれている、「猿猴橋」にやって来た、いよいよ広島市内に入る
猿猴橋(えんこうばし)「猿猴」とは広島地方で猿に似た河童のような空想の怪物のことをいい
洪水の度に人々を川に引きずり込む猿猴が住む川として川や橋の名前に使われたと説明されて
いる、橋の袂右側に、「猿猴橋水道橋」の説明板が立っている
猿猴橋は毛利輝元が広島築城を始めた天正17年(1589年)頃、木橋として架設され大正15年に
コンクリートの橋に架け替えられた、その際、華麗な電飾や装飾がなされたが、昭和18年の
戦時下ではすべて供出され昭和20年の原爆投下では構造的な被害は少なく、復興に大いに
役立ったことから被ばく70周年で大正当時の猿猴橋の一部を復元した
猿猴橋を渡って広島市内を進んで行く、車なので旧道の道筋には進めず、原爆ドームのある
平和記念公園に行く、西国街道は平和記念公園の中を通ている、原爆ドームは裏側からしか
撮れなかったが、裏は川である、原爆が投下された時この川に飛び込んだ人も大勢いただろうと
しばしの瞑想
公園内を散策して再び西国街道を行くが、西広島辺りでタイムアップ、廿日市辺りまで行きた
かったが、車を返すため広島へ引き返す、車を返しホテルへ、これで二日目のスケジュールは
終わり,、明日はいよいよ江田島へ行く