4西国街道(西条―瀬野) | 日本全国ぶらり街道一人旅

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タイトルを変更しました、寄る年波には勝てず長い距離を走れなくなってしまったため、もうマラソン大会に出られるような走りは出来なくなてしまった、近頃は走ることもままならずもっぱらウオーク&ジョグである、ただ街道の旅はやりたいのでタイトルを変更しました

第二日目の出発です

 

  

ホテルを出て旧道に入ると、左手に「ふじたストアー」と言うお店がある、ここが「西条四日市脇本陣跡」らしい、街道右手に「真光寺」屋根が独特の雁行の形をしている

 

真光寺の手前右側に「賀茂郡役所跡」広島藩の代官所で、代官不在時は御役所と呼ばれた西条

四日市宿の街並みは、街道らしく細い道が続いている

 

  

「友待坂交差点」で左に入って行く、左のごみ置き場に「時友一里塚跡」の説明版、道は登りに

なって行く

 

  

間もなく「飢坂(かつえざか)」由来の案内板と説明版、飢坂の名前の由来は二つあり

江戸時代、飢饉の時に、ここで多くの人が飢えで力尽き亡くなったことからこの地名になった

という伝説と、昔、牛を救って長者となった牛満長者は、昨日通った歌謡坂)から朝早く田植を

始め昼に浜田まで仕上げ、夕方に当地に達したところで、空腹となり飢坂(かつえざか)の地名が

おこったというもの

 

  

塚の垰(たお)の池の間を通って行く、頂上付近に「飢坂の標柱」ここまでは何とか車で

来れたがもうすぐ出口の所、先が見えているのだが、道幅が狭く通行困難、やむなくバックして

脱出八本松へ向かう

 

  

八本松駅の陸橋で北側に出ると、真っすぐに伸びた旧道に出る、この先で沓掛第三踏切を渡って

国道486号に一旦出た後「ミスターマックス」の先で左の細い道に入る、ミスターマックスの

駐車場内に「旧山陽道長尾一里塚跡」の石碑があるとの情報だったがいくら探しても見つからず断念

 

  

県道83号を潜るのだが誰が作ってくれたのか突き当りの壁に「西国街道の案内板」が

トンネルを潜った先にもあった、こうゆうのがあると助かります~

 

  

 やがて大山峠入口の看板があり、峠へ登って行く、ここにも車が捨てられているのがあった

大山峠については色々調べてみた、2018年以前に歩いた人のネット情報では難なく峠を越えて

いる様子が寄せられている、2018年7月の西日本豪雨による災害以降は越えるのは難しいとの

事だがこれもネット情報では越えた人の記録もあるので、とにかく取りあえず行って見ようと

行って見た

 

  

進んで行くと道が二手に分かれている、左に行って見たが、コンクリートの壁に行く手を

阻まれた、引き返し右の道に行って見たがこちらもダム工事のような感じで行き止まりに

なっている、結局大山峠を越える事は出来ず2号線に迂回せざるを得なかった

 

  

2号線から何とか旧道の瀬野川沿いに出た、「籠立場跡久井原橋」、「安芸瀬野塚七本松として

日本第二の塚松といえり」、「旧山陽道三本松」の案内板が立て続けに出て来る、瀬野地区は

西国街道の難所、標高337mの大山峠を控えた交通の要衝であった

 

  

暫らく行くと「吉田松陰詩詠の地」がある、案内板によると、吉田松陰はこの道を4回

通っていて一回目は嘉永4年(1851年)参勤交代で藩士として通り、あとの3回は罪人として

通った、漢詩は最後の安政6年(1859年)5月29日、安政の大獄で萩の野山獄舎から江戸の

伝馬町獄舎へ護送されるときに詠んだものとのこと

 

その先に「凉木(すずむぎ)一里塚跡」、その先に「街道の石垣(算木積み)」の案内板がある

算木積みとは石垣の強度を高めるために、石垣の角に使われる積み方だが、この石垣が?

 

  

瀬野の家並みに長い石垣の上に造られた白い壁の旧家がひときわ異彩を放つ、暫らく行くと

「大山刀鍛冶場跡・墓所」の案内板があった