日本では高校時代にアルバイトができる人は少ないが、大学生になると何らかの形でアルバイトをやる人が多い。
私も、その例外ではなかった。特に私の場合は田舎から東京の私立大学に行かせてもらったので学費以外はアルバイトで稼がざるを得なかった。
結構いろんなアルバイトをした。酒屋さん、本屋さん、製本屋さん、レストラン、喫茶店、測量補助などだ。
中でも、一番長く勤めたのは「食事」が賄いとして出される飲食業界であった。
今回は、その飲食業界でアルバイトした経験談と今に活きている「料理」のことについて触れてみたい。
私は中学時代から英語が得意で、高校時代には平戸往復のフェリ-で外国人と喋る訓練をしていたお陰で、会話には不自由しないレベルだった。
大学に入ると入部した「中国語文研究会」の3、4年生の先輩に英語を教えてあげるかわりに、中国語の個人レッスンを特別にやってもらっていた。
その先輩の中に横田さんという先輩がいて、その方の紹介で有楽町駅前の「東京会館」というフランス料理店に入った。
先輩が「英会話」の腕を買って外人相手のホ-ルスタッフとして働いたらということで雇われたわけである。
でも、その店のある風習が嫌になって約4ヶ月で辞めてしまった。
その後、いくつかのアルバイトをした後、たまたま通りかかった「キッチンカロリ-(飯田橋警察病院前にあった飯田橋店)」の店頭に掲げてあった「アルバイト募集」の広告を見て応募すると、
その店のマネジャ-だった長井眞氏に採用された。
その店は長井眞マネジャ-と依田チ-フのコンビで繁盛していた。
当時この飯田橋のキッチンカロリ-は江口食品のチェ-ンの1つで、当時は都内に14、5店舗あったと記憶している。
そのため、今でも残っているお茶の水店、駿河台下店、なくなった秋葉原店、四谷店などにもヘルプとして時々手伝いに行ったりしていた。
そういうことで、この江口食品では大学4年生までの3年半を勤めさせてもらった。
大学3年生になると学生アルバイトの中では全店の中でただ1人アシスタントマネジャ-に採用された。
アシタントマネジャ-は料理もできないといけないということで、時々調理場に入って依田チ-フから皿洗いに始まって、盛りつけ、下味付け、フライパン振りなどの基礎をみっちりと教えてもらった。
約2年もそういうことをやっていたが、いつの間にか江口食品の販売会議にまで出るようになって、社長は勿論のこと部長クラスや各店舗の店長、チ-フたちとも顔見知りになった。
多分、トヨタ東京カロ-ラの初任給より、キッチンカロリ-の給料が当時のお金で2、3万円は高かったと思う。
こういう長い経験があったため、長井眞氏とはトヨタに勤めた後も、そして長崎で教員になった後も上京する度に何度となく酒を酌み交わす友人となって現在も続いている。
夏休みなどの長期の休みになると、この経験がものを言い、近くのスナックや喫茶店からも手伝ってほしいと言われて交代要員としてバイトしたことがある。
1つは、大神宮通りの沖縄料理「島」の前の「スナックサンズ(今はない)」や富士見町の鐵原の前にあった「草原」という喫茶店などからお呼びがかかった。
学生の分際でありながら、本職と同じ仕事をさせられていたお陰で「料理」はいつの間にか私の特技の1つになっていた。
それが高じて今から5年前に居酒屋を開業することになったのだが、商売と趣味は違うということを思い知らされた。
どうも私は「猪突猛進」のタイプで失敗しないと懲りない性分らしい。
ところで、なぜこの文章を書くつもりになったかというと今朝の天声人語の記事に目を奪われたからである。
冒頭だけ紹介しよう!
『三島由紀夫は主食もおしゃれで、文壇バ-や居酒屋を避け、きらびやかな店に正装で出没した。
〈「プルニエの舌平目のピラフ」などは、何度となく食べて、一寸(ちょっと)間をおくと又食べたくなる。〉
プルニエとは、皇居お堀端にある東京会館のフランス料理店だ。』(天声人語から引用)
と、ここまで読んで私が居た「東京会館」を思い出したのである。
お堀端には「東京会館」はないので、多分お堀端から目と鼻の先にある有楽町の「東京会館」だろう。
そして、次第にバイトしていた昔の記憶がよみがえったという次第。
普段私は未来のことへ関心が強いタイプなので、過去を懐かしがることは余りない。
しかし、今回のように何かきっかけがあれば思い出すこともあるのである!