今日は本来塾長がブログを書く当番の曜日だが、受験生の指導や英検、高校生との対応などで忙しいとのことなので、先週に引き続き私が担当します。
ところで、皆様は高校卒業後何回転居した経験がおありでしょうか?
私は、18歳で高校を卒業すると進学した大学が東京だったため、それ以降数えてみたら何と16回も転居を繰り返していました。
それが多いのか少ないのかは分かりません。また、借家が良いのか、持ち家が良いのかも一概に言えませんが私の経験を綴ってみたいと思います。
1965年、大学1年の時私は大学が委託していた葛飾区金町にある「葛飾館」という寮に入りました。
当時はみんな貧乏学生が大半だったので、今のようにマンションなどの高級アパ-トに入るものは皆無に近かったと思います。
メンバ-は全国からの寄せ集めで、今もその時の仲間と同窓会で顔を合わせます。6畳一間に2人ずつ入っていて、ほとんど自分の空間は少なかったように思います。
ここには、私が呼び寄せた小西とか工藤も一緒に生活したことがあります。
葛飾金町駅からは常磐線、山手線か京浜東北線、そして総武線と乗り継いで九段の大学まで通っていましたが、ラッシュアワ-が大嫌いでした。
1966年、私のバイト先は飯田橋駅近くにあったため、2年生になると「職住学接近」の千代田区富士見町の鷺内宅に間借りしました。
そしたら、そこに間もなく小西が同じ部屋に住まわせてくれと言ってきました。6畳一間をゆったりと使えたのもつかの間だったのです。
それから間もなく工藤も歩いて5分ぐらいの所に引っ越してきて、3羽がトリオの奇妙な関係がまた再開しました。
3人がそろうと飯田橋界隈や神楽坂界隈を飲み歩いたものでしたし、お金がなくなると私のバイト先や工藤のバイト先で食事をシア-したものです。
そんな生活に終止符を打ったのは、またしても私でした。飯田橋のバイト先で知り合った榎木さんから自分の住むアパ-トに空き部屋が出たので来ないかと誘われたのです。
西武新宿線の石神井駅が最寄り駅で、大学からは遠かったのですがトヨタに勤めることが決まっていた私は大学4年の9月に関町に引っ越しました。(1968年)
トヨタ東京カロ-ラの時代は、練馬営業所に勤めていたので石神井から直ぐでした。
カロ-ラ時代は仕事も人一倍していましたが、ボウリングにも熱中したり、軟式野球を誘われたりした時代でしたので、結構お金が足りずに先輩たちから借りたりしていました。
そういうつけが回ってきて1970年には住居費・食費を節約しようとトヨタ東京カロ-ラの「東村山寮」に移りました。
ここはトヨタを辞めて田舎に帰る直前までいました。独身時代最後の日々でしたので、結構居心地が良く3年間もいた計算になります。
1972年7月に実家に帰ってきた私は親戚筋の田川博康氏(現臥牛窯会長)の紹介で当時の長崎トヨタ(現西九州トヨタ)に入社しました。
配属は実家から通える佐世保支店でしたが、東京では1時間余の通勤時間は当たり前でも長崎では当たり前でなく、いつまで続くのだろうかと揶揄されていました。
しかし、入社すると直ぐの8月27日に結婚式を挙げ、長崎トヨタの仲間も招待したら、そういう風当たりも直ぐ収まったから不思議なものです。
そうこうするうちに、第一次オイルショックに襲われました。それが、1973年で26歳の年でした。先々のことについて最も悩んだ時期だったでしょう!
家内が教員だったのと、父が地方公務員だっため将来の子育てなどを考えると「教員」が一番だろうと考えて会社を辞めることにしました。
勿論、これといって自信があったわけではありません。
会社に辞表を出しても久富支店長から毎晩のように飲まされて慰留されました。
3ヶ月経っても受理してもらえなかったので、断腸の思いで「明日から出社しません」と言ったところ本気であることを理解していただき、やっと許してもらえたのでした。
1974年4月、再上京した私は大学時代の4年間にお世話になった飯田橋の木屋酒店の紹介で向かい側の八木さんの2階に間借りして、大学に通いました。
大学3年生に進級する時、わざと教職の単位を取っていなかった…父親と同じ公務員になりたくなくて反抗した…から聴講生として戻ったわけです。
この時は既に長女が産まれていましたので、正に背水の陣でした。木屋酒店でアルバイトをしながら1年で国語と中国語の免許を取りました。
他にも法律を学ぶため、東京法経学院もダブルスク-ルで通いました。まだ、28歳と若かったからできたのでしょう!
1975年の4月から4ヶ月は田平の実家から鹿町中学校に産休補助教員として働きました。
ちょうど切れる頃に長崎北高等学校の松永久摩男先生に呼ばれて、長崎式見分校と長崎西高を兼務する生活が長崎市四杖で始まったのです。
しかし、合計5年もトヨタで車を売ることだけを追いかけてきた私に県の教員採用試験に合格する力はおいそれと回復しませんでした。
1976年に長崎日大から「常勤講師」の話をいただいた私は長崎日大で頑張ってみようと決断しました。
というのも、当時の長崎日大高校の校長先生は私の高校時代の校長先生の玉城亀保先生だったからです。
そういう運命の糸に操られるようにして諫早に居を定めました。最初は若葉町の工業団地アパ-ト。まるで幽霊屋敷みたいでしたが、お金がない私には文句は言えませんでした。
しかし、家内や子どもを時々呼ぶにはふさわしくないと思ったのか、それから短期間に女乙石の小船越の一軒家、そして馬渡町のかなり広い一軒家と住居を移しました。
家内は対馬から、田平、平戸、そして長女が5歳、長男が1歳になった時に西諫早小学校に転勤できたため、諫早市馬渡町で初めての一家揃った生活がスタ-トできたのです。
1979年は長崎日大の明倫館に私が責任者として入った年で、家内も教員を辞めて寮母として働くようになりました。
収入は極端に減りましたが、寮の敷地内に自分で設計した申し分のない我が家、無料の「寮監棟」が与えられたので生活はしばらくは楽でした。
ここから、子どもたちも西諫早小学校に通って、すくすくと成長していきました。この頃は2人が「発達課題」にそって最も多くの体験をした時代です。
しかし、長女が長崎の純心中学に進学した頃から長男も長崎の青雲学園に行きたいと言い出したのを覚えています。
この頃私は寮監を解かれて学校の国語科教員に戻るということが決まっていました。
そこで、家族会議を開き、2人の将来の可能性にかけるには長崎から私が通うのがよいか、それとも諫早住むのがよいかという話し合いをしました。(今となっては2人は覚えていません)
ベストの選択は長崎に居を定めるということになり、長崎市石神に当時は破格の家賃を払って住むことにしました。
長女は純心まで歩いて10分だし、長男は高尾小まで5分という最高のロケ-ションでした。
そこで、長男が青雲中学に合格するまでの3年間を過ごし、今住んでいる喜々津団地に自宅を新築したのが1991年です。
長崎市石神で10万円の家賃を払っていたので、そのくらいの支払であれば大丈夫だろうと考えたのですが、その判断が間違っていると気付いたのは住み始めて6年目でした。
ご承知の通り、住宅ロ-ンは30年、35年と長期にわたり、またステップロ-ンを組んだりすると後で急に家計が苦しくなります。
また、自宅の場合は固定資産税や庭木の手入れなど出費も多くかさんできましたので、売ろうと考えました。幸い余り時間を要することなく売れたので助かりました。
その家が売れた後は、その家の裏側の借家に3年住み、その後今の松岡借家が2区画分で家賃も安かったので、2000年から現在まで住み続けています。
この家は大家さんが2区画も土地を買ってくれていたし、家自体も長崎船舶装備が作ったしっかりした和風の家で部屋数も多いし、家の横には家庭菜園もできるし、言うこと無しです。
しかし、私と家内は共に長男(兄が亡くなっているので戸籍上は次男)・長女で、それぞれ田平と平戸に実家があります。このことは、ちゃんと頭の片隅に入れて考えないといけません。
実家を終の棲家にするかどうかは今のところまだ分かりませんが、どちらにしても安い固定資産税で土地と家屋がありますので、いずれ何らかの利用方法を考えないといけないでしょう。
また、私は長崎日大を退職すると同時に買った小長井町田原免に点在する約1万2千坪の山林・田・畑なども有効活用する必要があります。
この46年間に16回も転々としてきた私もそろそろ次の人生設計を考える年頃に差し掛かっているといえるでしょう。