■#003 上杉謙信が塩を送った本当の理由は?■ | みの吉の学校で教わらない戦国時代

みの吉の学校で教わらない戦国時代

群雄割拠の戦国時代。
戦国武将たちは自らの信念を持って必死に生きています。
そんな戦国武将から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。

日本の戦国時代を中心に学校の授業では教わらない、
エピソードや戦国武将の名言・家訓などのご紹介をしていきます。

”敵に塩を送る”

”敵が苦しんでいるときにその苦境を救う”

という意味で使われます。



越後の”上杉謙信”(うえすぎけんしん)が、
上杉謙信
















甲斐の敵将”武田信玄”(たけだしんげん)に

塩を送ったという話がもとなのですが、

謙信は本当に武田軍が困った状況を救うために塩を送ったのでしょうか?





信玄は駿河・相模から塩を調達していました。

ところが、信玄の嫡男”武田義信”(よしのぶ)の妻を、

実家の今川家へ戻したことにより、

”今川氏真”(いまがわうじざね)が恨み、

それがもとで塩の供給がストップしてしまったのです。





当時の塩は大変貴重品であり、

海に面していない甲斐・信濃では尚更です。



その武田家の窮地に謙信は、


「われ信玄と争うは弓矢にあり、なんぞ米塩にあらんや」


と信玄に塩を送ったと言われています。







ですが、そもそも駿河・相模だけから塩を調達していたのでしょうか?

もし武田家が甲斐しか納めていないのであればそうかもしれませんが、

信濃も手中に収めていたのであれば越後も接しているわけで、

日本海側からも塩を調達していたと考えられるでしょう。





実は一説によると、越後の塩はもとから信濃へ送られており、

謙信は商売を続けただけという話もあります。



さすがの”毘沙門天の化身”上杉謙信も

収入源はしっかりと確保したかったのでしょうね。







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