ご訪問ありがとうございます。
心温かな訪問介護ヘルパーさん達のおかげで
母の完全自宅介護が実現して1年半。
このまま自宅で最期を迎えられたらと思っていた矢先、
私の乳がん発覚で、自分の治療と
母の介護との両立のなか、
2023年11月に母が旅立ちました。
その時の記録を綴っています。
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ここ最近
母の死後の手続きを書いてきましたが、
私の病気の事を書かせて頂こうと思います。
私は母の自宅介護生活中だった昨年9月、
乳がんの告知を受けました。
それまで、
(夫の保険組合からの助成で)
毎年10月に人間ドッグを受けていましたが、
引っかかった事は一度もありませんでした。
マンモと細胞診検査で見つかったがんは
右乳房に3cmの大きながん。
その為、担当医(女性ドクター)から
「去年の10月に人間ドッグで
見つからなかったという事は
かなり進行の早いがんの可能性があると思います。」
と言われました。
その言葉を受けて、
私は母よりも先に旅立つかもしれないという
一抹の不安を抱きました。
その後、造影剤を入れたCT検査で
もう1個、小さながんが見つかりました。
その事で、私のがんは『湿潤性の乳がん』で
『乳房内転移あり』と診断されました。
タイプは女性ホルモンが関与しない
『HER2陽性型・乳がん』であり、
ステージについての診断は、
術後に確定すると言われました。
治療方針は、右乳房切除手術。
その手術前に、抗がん剤と分子標的薬を
3週間に一度点滴する治療が6回。
術後は、同じ治療を12回行うとの事でした。
前後合わせて合計18回の投与。
夫は今から8年前、
悪性リンパ種を発症し、
抗がん剤治療を受けた事がありました。
もちろんつらい治療には変わりませんが、
のたうち回って
苦しむ姿を見た事が無かったので、
私はがん治療を甘くみていたと思います。
ただ、乳がんは抗がん剤の回数が多すぎる。
期間が長すぎる…。
術後合わせて18回も抗がん剤を?
これが乳がんなんだ…と。
そうして始まった治療。
術前はそういう事で、
計6回の化学療法を予定してました。
ですが、初回の投与の副作用は、
あまりにひどいものでした。
その日、
医師に点滴注射針を刺してもらい、
化学療法のフロアに移動し、
ベッドに横になってうけた点滴、4時間。
薬剤は
ドセタキセル、カルボプラチン、
パージェタ、ハーセプチンの4種。
この中の
パージェタとハーセプチンの2種が
HER2たんぱくの分子標的薬で、
初回投与の量は、通常の倍量入っています。
吐き気止めも、点滴の中に入れられるため、
遊眠されて、4時間はあっという間でした。
そして目覚めた後、
心臓がしめつけられるような胸の痛みがあり、
まさに”毒をもられた!”としか
言いようがない、強烈な衝撃でした。
(ただブログを探しても、
そうした事を書かれている方を見つけられなかった。)
そして帰宅してから
病院の指示書にあったように、
抗がん剤を身体から流すために、
沢山の水を飲みました。
帰宅した時には、
体中から金属の臭いが放出されているように
感じ、その臭いは何ともすさまじかったです。
(私はもともと嗅覚が敏感過ぎる体質です。
この臭いの事もまたブログに書いてる方は見つけられず。
私だけの感覚なのかもしれません。
ちなみに2回目以降はこの金属臭はなかったです。)
そして帰宅後、
処方された吐き気止めの薬を
服用している為か、
嘔吐はないものの、下痢がひどく、
数分おきにトイレにかけこむ状態。
ついには水便になって制御できず、
下着が一気に汚れてしまう状態に。
その臭いもすさまじい臭いでした。
こうなると、
母のおむつとパッドを当てないと
やり過ごせない。
そうしてしのぎつつも、
3日後にはふらふらに。
又、初日に水便がお尻に広がっただけで
お尻の皮膚が褥瘡(じょくそう)になり、
一気にただれてしまいました。
寝たきりの母が褥瘡になった事がないのに
私はこれだけで褥瘡になったのです。
その後、その日の状況を医師に伝えると
それは脱水症状で危険な状態だったそうです。
(こういう時は、必ず病院に連絡しなくちゃ
いけない事が書類に書かれていたのに、
守っていませんでした。)
そしてこうした強い脱水症状を起こした人は
自分の患者では診た事がないと言われ、
年齢的な事もあるとも言われました。
この時、母はまだ施設を利用せず、
自宅で過ごしていました。
姉に前日から来てもらい、
そこから1週間つききりで、
母をみてもらってました。
母の介護は消極的だった姉でしたが
妹のためにと、姉は一生懸命
母の介護を頑張ってくれたのです。
ただ、その初日の状態の時に、
『これが合計18回も続くのであれば、
自分は抗がん剤で死ぬ…』と思い、
少し落ち着いた翌々日、
姉を部屋に呼び、
「もし私が副作用で死んだら、
母の葬儀や手続きは頼む。」とお願いし、
母の通帳の管理場所や、葬儀社の連絡先、
お寺の連絡先を書いたものを
必死で伝えていました。
その他、
抗がん剤や分子標的薬の副作用としては
・爪の変色/爪割れ
・口のはげしい乾き
・食道の違和感
・味覚障害
・手先のしびれ
・顔の紅斑とシミ
・目ヤニ(毎朝、瞼がくっついてる)
・鼻水がしたたり落ちる
・視力低下(今も戻らず)
・聴力低下(これは僅か)
・肌の土色変色
・強い下痢
・鼻血
などがありました。
何より体力を奪ったのは
口の粘膜がシワシワになる事で、
食べるものがダンボールの食感になる事です。
これほど食べる事が苦痛と感じた事は
かつてなく、
食べれない事で体力が奪われていきます。
ただ、3週間経過すると、
少しづつではあるけれど、元に戻っていく、
そして少しづつ食べれるようになる。
それで続けていけれるのです。
それでも、若い方と違って
副作用がきつく出てしまうため、
3回目の投与から、抗がん剤の量は
3/4に減薬されました。
ですが、
毎回治療を重ねるごとに
体力の消耗は止まらず、
特に息切れとだるさは増していきます。
何かの用事がある以外は、
1日の大半は寝たきり状態です。
また、白血球を上げる為に打つ、
ジーラスタの注射による関節痛がきつく、
腰に激痛が走る時は、
膝を曲げた四つん這いになって
下げた頭をアイスノンに当てながら、
鎮痛剤が効くのをただひたすら待つ時間。
その痛みに『安楽死』を検索するほど
つらい日もありました。
やがて3回目投与した2週間後当たりから
足がむくみはじめ、
太さが1.3倍位になりました。
またずれが起き、
足の重さで、長い時間歩けません。
平らな道で20mが限界、
家の急階段は10段が限界でした。
それに加え、毎朝起きると、
心臓のしめつけのような痛みがありました。
(分子標的薬は心臓と肺の機能低下を起こす事がある。)
そんな具合でしたので、
担当医師(女医)から、
術前の抗がん剤を3回で中断し、
手術に踏み切ってはどうかという
ご提案を受けました。
ですが医療の事は私には判りません。
標準治療の回数を減らす事で、
寛解率が低くなる事を考えると、
何とかここで頑張りたいと思い、
「いえ、6回とも受けたいと思います。」
と伝え、4回目を投与しました。
この4回目を受けた日は、
母の葬儀後、2週間経過し、
目前に控えた四十九日法要を前に、
その準備と相続手続きに
奔走していた時期にあたります。
そうして日が過ぎ、
なんとか母の死後一連の作業を終えて、
一段落出来た12月の最終週、
5回目の抗がん剤の日を迎えました。
いつものように朝一番に診察室に入ると、
医師が診察前に受けた血液検査の結果と、
副作用のアンケート内容を見て、
医師はドクターストップを告げました。
「これ以上続ける事は、
貴女にとってリスクがありすぎます。
がんをやっつけようとして、
身体がボロボロになったら、
手術出来る体力がなくなって、
元も子もなくなります。
貴女は前回、頑張って6回やると
言ってくれたけど、
医者としては
これ以上続ける事は出来ません。
ここで術前治療を止めます。」
と。
そして、
「あと数日でお正月が来ますよね。
ちょっとゆっくり休みましょうか〜。
そして体力を回復できる1月なかばに、
手術に踏み切りましょう!」
それを聞いて、私は心の中で、
やっと楽になれると思いました。
そしてその場で、
手術日と術前検査が組み込まれました。
私はこの時、正直、
5回目を受ける自信は
もう、ありませんでした。
体力の限界だったと思います。
それでもこんな風に、
医師が強く止めてくれなければ
5回目を受けていたかもしれません。
私の担当医も看護師の方も、
私が自宅で母を介護していた事や、
その後の治療中に
母が亡くなった事もご存知です。
私は診察室を出て、
夫の待っている待合室に移動しました。
夫に
「今日、受けないで、家に帰れる。
5回目、先生が受けなくていいって
言ってもらえた。よかった。」と言うと、
夫は
「そうか、よかったな。」と言いました。
そして看護師さんが
次回来院の予定表を持って来てくれました。
その方から、
「では次はこの日です。来て下さいね。
手術前の検査ですからね。」
と予約表を渡してくれました。
そして看護師さんは、私の顔を見て、
力強い声で
「minntaさん。今までよく頑張りました。
精一杯やりました!
もう充分、頑張りました!」と。
その言葉を聞いて、
いきなり目頭が熱くなりました。
じわっと出てくる涙を
看護師さんに見せたくなくて、
視線を合わせる事が出来ない。
この看護師さんは、以前
がんの告知を受けた日に、
アドバイスしてくれた方でした。
この病院では、
女性患者が置かれている家族状況などを
詳しく聞き取ります。
子育て中の方、妊活中の方、
旦那様がどこまで家事負担をしてくれるかなど、
患者のおかれた状況を聞き取る事で、
治療が継続できるかを確認されています。
私も幾つかの質問を受け、答えました。
自分は認知症の母親と同居をしていて
ヘルパーさんに週5日来てもらいながら
施設を使わず、
自宅介護している事を伝えました。
そして、
「自分の病も心配ですが、今は
治療をしながら母を自宅でみれるのか、
それだけが心配です。」
と言った私に、
この方は同情を示されながら
穏やかな口調で、
「そういう状況だったんですね…。
minntaさん、
私から、これだけはお伝えしておきたいんです。いいですか?
minntaさんが迷われた時、
その時は無理をせず、
"自分が一番らくだと思う道"を
選んでください。
自分が一番らくだと思う道をです。」
と。
この時の言葉は、私にも夫にも
心にどんと響く言葉でした。
そして私はこの方を見て、年下の方ながら
『私もこんな人になりたい。』
と思わせる方でした。
その方から、この日、
私にかけてくれた
「よく頑張りました!」
の力強い労いの言葉に、
我慢しても、我慢しても、
こみあげてくるものがありました。
私は病の告知を受けた時も
副作用の辛さにも「涙」を流した事は
一度もありません。
母の事で泣いた事はあっても、
自分の病で泣いた事は無かったのです。
夫だって、がんの治療を克服したのだからと。
ですが、涙が出てくる…。
これまでの事が一気に蘇ってくる。
白いキャミソールのブラに
血がついているのを発見した日の事、
それをネットで調べて
自分はがん確定だと覚悟を決めた日の事、
そしてこの病院の診察室で、
医師から、がん告知を受けた日の事、
そして母をどうすればいいかを悩んだ日の事、
副作用がきつく、
母を自宅で見れないと決断した日の事、
母に自分の病を告げるために
キャップをはずして坊主頭を見せた日の事、
母にショートの利用をお願いした事、
そしてショート先で母が息を引き取った日の事、
そして母の葬儀と死後の手続きに奔走した日々の事。
この数か月あった出来事が
走馬灯のように頭を駆け巡り、
感情があふれてくる。
『ここは待合室だから泣いちゃいけない、
同じように苦しんでる人がいる。
私が泣いたら、
その人達を心配させてしまう。』
そう思いつつも
涙を抑える事が出来ず、
ハンカチで目を抑え、声を殺して泣きました。
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今日も長文におつきあい頂きまして
ありがとうございました。
一人でも多く乳がんの早期発見のために出来る事を
書きたい情報があります。
長くなるので、続きは次の記事に書かせて頂きます。
明日も良い日となりますように。