< すごい長文です。ご興味のある方だけ、ど~ぞ★ >
原智恵子(1914年 - 2001)というピアニストをご存知でしょうか?
西欧ではその名は知られても、日本では忘れられたピアニスト、
日本のクラシック界に抹消されたピアニスト。
私は数ヶ月前に、恩師A氏から教えてもらい、今日、
石川康子の著書、 『原智恵子 伝説のピアニスト』を読んだ。
最後、涙がたくさん溢れた。
西欧ではその名は知られても、日本では忘れられたピアニスト、
日本のクラシック界に抹消されたピアニスト。
私は数ヶ月前に、恩師A氏から教えてもらい、今日、
石川康子の著書、 『原智恵子 伝説のピアニスト』を読んだ。
最後、涙がたくさん溢れた。
本の概略**************************************
原智恵子は、兵庫県神戸市生まれ。経済的に恵まれた家庭だった。
父親のすすめで7歳からピアノを習う。
ピアノ教師は、スペインのピアニスト、ペトロ・ビラベルデだった。
ビラベルデは、日本ではお決まりのバイエル教本を使わず、フランス教本から始めたという。
理由は、ドイツ式のバイエルは機械的な指運動の訓練には適すが、豊かな音楽精神を養うのは不適だということからだった。
彼は、子供の時期にこそ、豊かな音楽表現を体感する教本が必要だと感じていたという。
また、ビラベルデは、ラヴェルやドビュッシー、ショパンなどを彼女に聴かせた。
いつも幼い彼女は、さまざまな音楽に目を輝かして聴いていたという。
父親のすすめで7歳からピアノを習う。
ピアノ教師は、スペインのピアニスト、ペトロ・ビラベルデだった。
ビラベルデは、日本ではお決まりのバイエル教本を使わず、フランス教本から始めたという。
理由は、ドイツ式のバイエルは機械的な指運動の訓練には適すが、豊かな音楽精神を養うのは不適だということからだった。
彼は、子供の時期にこそ、豊かな音楽表現を体感する教本が必要だと感じていたという。
また、ビラベルデは、ラヴェルやドビュッシー、ショパンなどを彼女に聴かせた。
いつも幼い彼女は、さまざまな音楽に目を輝かして聴いていたという。
智恵子はいつも誉めてくれるビラベルデのレッスンが好きで、
日本の子供達が通常嫌がるバッハも好んで弾いたという。
ビラベルデが驚いたのは、特にバッハのフーガなどは即効に暗譜してしまう類まれな習得の早さだったという。
そうして教師の強い勧めと、経済的にめぐまれていた家庭環境もあって、
智恵子は一人のピアニストの門下生になるべく、13歳で渡仏する。
日本の子供達が通常嫌がるバッハも好んで弾いたという。
ビラベルデが驚いたのは、特にバッハのフーガなどは即効に暗譜してしまう類まれな習得の早さだったという。
そうして教師の強い勧めと、経済的にめぐまれていた家庭環境もあって、
智恵子は一人のピアニストの門下生になるべく、13歳で渡仏する。
最初は個人教授につく形でフランスに渡ったが、当の師の指導法と合わず、
急遽、エコール・ノルマン入学を目指すことになった。
けれど、さらなるレベルの高いコンセルヴァトワールへの入学が可能ではないかという周囲の意見で、
10倍以上の競争率となる関門を突破し、見事入学した。
さらに、2年で卒業。そのコンクールで、日本人初となる最優秀を獲得した。
(コンセルでは、1位をとれば卒業。1年で卒業する者もいれば、5年で卒業するものもいる。
5年以内で卒業できず退学となる者も当然出る。振る落とすのも、コンセルならではだ。
そして卒業資格となる1位獲得者から、たった1名が最優秀として選ばれる。)
急遽、エコール・ノルマン入学を目指すことになった。
けれど、さらなるレベルの高いコンセルヴァトワールへの入学が可能ではないかという周囲の意見で、
10倍以上の競争率となる関門を突破し、見事入学した。
さらに、2年で卒業。そのコンクールで、日本人初となる最優秀を獲得した。
(コンセルでは、1位をとれば卒業。1年で卒業する者もいれば、5年で卒業するものもいる。
5年以内で卒業できず退学となる者も当然出る。振る落とすのも、コンセルならではだ。
そして卒業資格となる1位獲得者から、たった1名が最優秀として選ばれる。)
この最優秀者は、その後、フランスにおいて演奏会開催が約束される大変栄誉な賞だ。
卒業後、彼女は両親に内緒でショパン・コンクールを受けることにした。
ショパンの故郷・ポーランドを見れるのが何より嬉しい、それが応募の理由だった。
日本人で初めてショパン・コンクールに出場したのは、他でもない、原智恵子だ。
けれど、それさえ、記録が抹消されている。本当におかしな話だ。
卒業後、彼女は両親に内緒でショパン・コンクールを受けることにした。
ショパンの故郷・ポーランドを見れるのが何より嬉しい、それが応募の理由だった。
日本人で初めてショパン・コンクールに出場したのは、他でもない、原智恵子だ。
けれど、それさえ、記録が抹消されている。本当におかしな話だ。
この出場した第3回ショパンコンクールは過去にないほどの激戦だったが、
すでにコンセルヴァトワール最優秀賞獲得から多くの観客が注目しており、
その見事な演奏に、優勝は彼女だという声が上がっていたらしい。
彼女は、ショパンの演奏において、師のコルトーから、ポーランド民族の独特のリズム、
その作品の精神性を理解する努力を怠らなかった。
それが観客に伝わっていたのかもしれない。
発表の際、13位という不本意な結果に終わったとき、観客が暴動に近い騒ぎを起こし、
結果、その騒ぎを鎮めるために、特例として彼女に「特別聴衆賞」を贈ることで、
ようやく騒ぎが収まったという。
この賞は確かな受賞にもかかわらず、その記録がその後、音楽の最高辞典である、
ニューグローブ音楽辞典(日本版)に掲載されていないというのは、明らかにおかしい。
すでにコンセルヴァトワール最優秀賞獲得から多くの観客が注目しており、
その見事な演奏に、優勝は彼女だという声が上がっていたらしい。
彼女は、ショパンの演奏において、師のコルトーから、ポーランド民族の独特のリズム、
その作品の精神性を理解する努力を怠らなかった。
それが観客に伝わっていたのかもしれない。
発表の際、13位という不本意な結果に終わったとき、観客が暴動に近い騒ぎを起こし、
結果、その騒ぎを鎮めるために、特例として彼女に「特別聴衆賞」を贈ることで、
ようやく騒ぎが収まったという。
この賞は確かな受賞にもかかわらず、その記録がその後、音楽の最高辞典である、
ニューグローブ音楽辞典(日本版)に掲載されていないというのは、明らかにおかしい。
彼女はこうして、西欧でようやく演奏家としてのスタートを切るはずだったが、
父の事業が、来たるべき大戦のの不穏な経済事情から、帰国せざるを得なかったという。
彼女の名声は、当時、海を渡って、国内の新聞にデカデカと報道されており、
関係者から、演奏会開催をのぞむ声が多かった。
彼女は、まだ勉強途中ゆえに演奏会の主催には抵抗があったが、家族を養うために受けている。
そして、ラジオ放送(当時出来たばかりの現NHKラジオ局)にて、クラシックのピアノ演奏を行い、
戦前、戦後、失意にあった人々に、音楽を通じて癒しを与えていた。
当時、国民にとって、原智恵子は憧れのピアニストだった。
こうした人気と実績から、東京藝術大学創設の際、彼女を教授として迎えたいという要請があった。
けれど智恵子は、いまだ日本が、旧式テクニック(ハンマー打弦)に固執していることへの疑問と、
五線譜に記された音だけを弾くだけで音楽表現に乏しい教育機関に魅力を感じることが出来ず、
また自身が、教育者として道を歩むことは本意ではなかった。
彼女にとって、音楽の演奏の場は、日本ではなく、あの輝かしく洗練された西欧だった。
父の事業が、来たるべき大戦のの不穏な経済事情から、帰国せざるを得なかったという。
彼女の名声は、当時、海を渡って、国内の新聞にデカデカと報道されており、
関係者から、演奏会開催をのぞむ声が多かった。
彼女は、まだ勉強途中ゆえに演奏会の主催には抵抗があったが、家族を養うために受けている。
そして、ラジオ放送(当時出来たばかりの現NHKラジオ局)にて、クラシックのピアノ演奏を行い、
戦前、戦後、失意にあった人々に、音楽を通じて癒しを与えていた。
当時、国民にとって、原智恵子は憧れのピアニストだった。
こうした人気と実績から、東京藝術大学創設の際、彼女を教授として迎えたいという要請があった。
けれど智恵子は、いまだ日本が、旧式テクニック(ハンマー打弦)に固執していることへの疑問と、
五線譜に記された音だけを弾くだけで音楽表現に乏しい教育機関に魅力を感じることが出来ず、
また自身が、教育者として道を歩むことは本意ではなかった。
彼女にとって、音楽の演奏の場は、日本ではなく、あの輝かしく洗練された西欧だった。
華やかな雰囲気と美貌、そしてフランスで培ったエレガントな智恵子。
そして持って生まれた潔い性格は、常に言いたいことを発言し意見する。
それが国内の教育関係者達にとっては、鼻持ちならない女性として映ったのではないかと、
著者は本のなかで分析している。
国内で開催されて演奏会には、常に否定的な解釈をする批評家や、
演奏とは関係ない彼女の性格を持ち出して非難する批評家もいた。
その後、ようやく希望する西欧に戻ることが出来、演奏会は常に大成功だった。
けれど、華々しい海外での活躍が国内の新聞に掲載されることは、まったくといっていいほどなく、
その存在自体を故意に無視されているような状態だった。
そして持って生まれた潔い性格は、常に言いたいことを発言し意見する。
それが国内の教育関係者達にとっては、鼻持ちならない女性として映ったのではないかと、
著者は本のなかで分析している。
国内で開催されて演奏会には、常に否定的な解釈をする批評家や、
演奏とは関係ない彼女の性格を持ち出して非難する批評家もいた。
その後、ようやく希望する西欧に戻ることが出来、演奏会は常に大成功だった。
けれど、華々しい海外での活躍が国内の新聞に掲載されることは、まったくといっていいほどなく、
その存在自体を故意に無視されているような状態だった。
彼女の師は、考えれば幼い頃から、いつも海外のピアニストだった。
日本音楽教育に所属している演奏家の門下生であったことは一度もなかったし、
第一、自分が上野学校(旧・東京藝術大学)に進学せず、渡仏したのは、
当時の師が、そこではあまりにもピアノ教育のレベルが智恵子に不向きだと助言していたからだった。
実際、当時の上野学校は、技巧を習得させるだけで精一杯で、それ以上の音楽解釈を伝えるだけの
指導者はいなかったという。
智恵子の師が最も大事に伝えたのは、作曲家の民族、その特有のリズム解釈だった。
上野学校にそれを指導し、更なる表現向上の習得させる教授陣はいなかったという。
それに、智恵子にとって、聴衆や批評は、いつも西欧の人々の方が暖かで的確だと感じていた。
国内で演奏家として活躍したいという意思は彼女になかった。
そうした彼女の意見は、日本のアカデミー関係者の反感を買い、結果、
完全無視、或いは徹底批判という形となって、攻撃される結果になったと考えられる。
この本は、ある意味、日本のアカデミーが行ったイジメの告発本のようにも思える。
日本音楽教育に所属している演奏家の門下生であったことは一度もなかったし、
第一、自分が上野学校(旧・東京藝術大学)に進学せず、渡仏したのは、
当時の師が、そこではあまりにもピアノ教育のレベルが智恵子に不向きだと助言していたからだった。
実際、当時の上野学校は、技巧を習得させるだけで精一杯で、それ以上の音楽解釈を伝えるだけの
指導者はいなかったという。
智恵子の師が最も大事に伝えたのは、作曲家の民族、その特有のリズム解釈だった。
上野学校にそれを指導し、更なる表現向上の習得させる教授陣はいなかったという。
それに、智恵子にとって、聴衆や批評は、いつも西欧の人々の方が暖かで的確だと感じていた。
国内で演奏家として活躍したいという意思は彼女になかった。
そうした彼女の意見は、日本のアカデミー関係者の反感を買い、結果、
完全無視、或いは徹底批判という形となって、攻撃される結果になったと考えられる。
この本は、ある意味、日本のアカデミーが行ったイジメの告発本のようにも思える。
著者の石川康子は、この本を書き上げるにあたり、実際に智恵子の軌跡を辿っている。
オーストリア、イタリア、スペインへと飛び、関係者を取材し、現存している書簡があれば、
徹底的に調べている。
そうして、彼女と親交のあった友人や関係者へ、実に綿密な取材を行って書き上げたその労苦は、
山崎豊子の取材にも劣らないのではないかと思う。
もしかすると、それ以上かもしれない。
オーストリア、イタリア、スペインへと飛び、関係者を取材し、現存している書簡があれば、
徹底的に調べている。
そうして、彼女と親交のあった友人や関係者へ、実に綿密な取材を行って書き上げたその労苦は、
山崎豊子の取材にも劣らないのではないかと思う。
もしかすると、それ以上かもしれない。
本のなかには、彼女を取り巻いた人物がじつに多く登場するのだけれど、
そこに音楽好きなら誰でも知っている、池内友次郎(東京藝術大学初代教授)や、
安川加寿子(ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲を練習したことのある人なら、この人の名は楽譜の表紙で何度も目にしているはず)が登場する。
安川加寿子は10歳以上、智恵子より年下で、同じくコンセルヴァトワールで首席で卒業した逸材だ。
しかし安川は、ソリストとして活躍することを選ばず、智恵子が断った東京藝術大学の教授の座についた。
そうして優れた教育指導者として、また、さまざまな分野の研究者としても貢献した。
日本人が良しとする、控えめで地味で、そして従順なその気質。
智恵子とは、まったく対照的で、批評家は、智恵子の批判をする際、必ず安川加寿子を持ち出して比較し、
日本を代表するトップピアニストは安川加寿子だと称えた。
そこに音楽好きなら誰でも知っている、池内友次郎(東京藝術大学初代教授)や、
安川加寿子(ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲を練習したことのある人なら、この人の名は楽譜の表紙で何度も目にしているはず)が登場する。
安川加寿子は10歳以上、智恵子より年下で、同じくコンセルヴァトワールで首席で卒業した逸材だ。
しかし安川は、ソリストとして活躍することを選ばず、智恵子が断った東京藝術大学の教授の座についた。
そうして優れた教育指導者として、また、さまざまな分野の研究者としても貢献した。
日本人が良しとする、控えめで地味で、そして従順なその気質。
智恵子とは、まったく対照的で、批評家は、智恵子の批判をする際、必ず安川加寿子を持ち出して比較し、
日本を代表するトップピアニストは安川加寿子だと称えた。
智恵子は、のちに世界的チェリスト・ガスパール・カサドと再婚した際も、マスメディアはひややかだった。
その後、そのカサドが亡くなり、失意の果てに日本へ帰国したとき、批評家・野村光一は、今後一切の活動を阻止するべく、音楽之友社の『ピアニスト』の本のなかで、徹底的に智恵子を葬り去る記事を書いた。
その後、そのカサドが亡くなり、失意の果てに日本へ帰国したとき、批評家・野村光一は、今後一切の活動を阻止するべく、音楽之友社の『ピアニスト』の本のなかで、徹底的に智恵子を葬り去る記事を書いた。
原智恵子の名が、今日になって、ようやく知られるようになったのは、
何より、この本の著者・石川康子氏の功績だと思う。
本を朝から読み、目を休める気になれず、夕刻まで一気に読んだ。
最初は、恵まれた環境に生まれ、音楽的資質に富み、容姿美しく、社交性に富み、
そうして、人との出会いに運があり、なんとも恵まれた幸運のピアニストだと思っていたけれど、
彼女の20代からは、波乱の人生が描かれ、そうして最後に泣いた。
何より、この本の著者・石川康子氏の功績だと思う。
本を朝から読み、目を休める気になれず、夕刻まで一気に読んだ。
最初は、恵まれた環境に生まれ、音楽的資質に富み、容姿美しく、社交性に富み、
そうして、人との出会いに運があり、なんとも恵まれた幸運のピアニストだと思っていたけれど、
彼女の20代からは、波乱の人生が描かれ、そうして最後に泣いた。
また、この本のなかには、彼女の7歳のときから、老いた智恵子までの人生の経過描きながら、
彼女を取り巻く多くの人物が登場している。
そこには有名人物や音楽家が登場する。
彼女と親交のあった人物、因縁のあった人物、彼女を支援した人物、
その、そうそうたる面々に驚く。
彼女を取り巻く多くの人物が登場している。
そこには有名人物や音楽家が登場する。
彼女と親交のあった人物、因縁のあった人物、彼女を支援した人物、
その、そうそうたる面々に驚く。
たとえば、アリシア・デ・ラローチャは彼女の友人であったし、
アルフレッド・コルトーは彼女の助言者であり、師だった。
そしてピアノの巨匠・ルビンシュタインは、彼女の支援を行った。
バブロ・カザロフは登場するし、ロストロ・ポービッチとの親交。
さまざまな著名人が、彼女の人生にかかわっている。
池内友次郎との因縁。
安川加寿子との不思議な縁。
アルフレッド・コルトーは彼女の助言者であり、師だった。
そしてピアノの巨匠・ルビンシュタインは、彼女の支援を行った。
バブロ・カザロフは登場するし、ロストロ・ポービッチとの親交。
さまざまな著名人が、彼女の人生にかかわっている。
池内友次郎との因縁。
安川加寿子との不思議な縁。
著者・石川康子氏が書き上げた、この素晴らしい本は、これからピアノを教える人や
ヨーロッパへ留学する人、演奏家、そして音楽関係者やクラシックファンの方に
是非とも読んで頂きたいと思います。
そして、私はこの本の出版を機に発売された原智恵子とガスパール・カサドとの演奏CDを
是非とも購入して、その音楽の心に耳を傾けたいなと思います。
ヨーロッパへ留学する人、演奏家、そして音楽関係者やクラシックファンの方に
是非とも読んで頂きたいと思います。
そして、私はこの本の出版を機に発売された原智恵子とガスパール・カサドとの演奏CDを
是非とも購入して、その音楽の心に耳を傾けたいなと思います。
