クララ・シューマン『おばあちゃんからの手紙』 | あなたに,も一度恋をする

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昨日、図書館で本を借りてきた。
以前から読みでみたかったクララ・シューマンの書簡本
『おばあちゃんからの手紙 -クラーラ・シューマンから孫娘ユーリアへ-』

春秋社から出版されているこの本は、
クララ・シューマンが孫娘ユーリアに宛てた手紙が掲載されているほか、
ユーリアの日記も掲載されている。

クララは1819年から96年まで生きたピアニストであり、作曲家。
そしてローベルト・シューマンの妻。
卓越した演奏家として、シューマンだけでなく、ブラームスの創造のインスピレーションを鼓舞し、
彼らの作品解釈の一つの規範となっている。

当時の女性としては、名声や地位、妻や母として「幸福」の全てを手中にしたと思える音楽家でありながら、
四男四女のうち、生前4人の子供を亡くし、晩年には三男の死去によって、その孫7人の生計をも支えた。
その孫のなかの長女であるユーリエは、たったひとりの孫娘であり、彼女を一流のピアニストにすべく、弟子とし、将来の道を開くべく多くの資金援助を行った。
著書は、孫ユーリエ13歳から自立する22歳(クララが68歳から亡くなる77歳まで)の手紙が記されてる。

この本は読むまで、愛情一杯で孫に向けられて書かれた優しい手紙だと思っていたけれど、
読んで驚いた。
今のティーンと変わりない自由奔放なユーリエに向けて書かれたその手紙は、
一環して、大変手厳しい叱責が綴られる内容が多かった。
時には辛らつなほどに、ユーリエの行動を批判し、繰り返し、礼儀作法や健康管理、倹約について書かれてる。
けれど、その真意が、女性として職業を持って自立をはかってもらうことを願ってやまない祖母の想いが伝わってくる。

クララはユーリエを含む7名の孫の生計を、闘病のユーリエの父親(クララにとって息子)に代わって面倒をみるために、1878年にフランクフルトの高等音楽院に教授の職に就いた。
それは年老いたクララにとって、大変な負担だったという。
なかでも、若くして亡くした娘ユーリエの面影を重ねて同名を名付けた孫娘ユーリエへの想いは強く、シューマン家にふさわしい演奏家となるために心を尽くしていた事が、この本の序文にも記されていた。
9年間にわたって贈られた手紙は、老いて自由に身体が動かなくなっていくクララのつらさも綴られている。

わがまま一杯、自由奔放なユーリエは、クララを大好きな愛情深いおばあちゃんと慕いながらも、
最終的には、クララが敷いた一流演奏家への道を進まず、クララを大いに落胆させた。
彼女は国内屈指の音楽院を卒業したにも関わらず、ピアノ教師としての職業を選んだ。
そして、何よりクララを悲しくさせたのは、ユーリエが自分よりも実母を選んだことだった。
幼い頃から祖母クララを暮らしながらも、彼女の夢は、母と暮らすことだった。
(ユーリエの母アントーニエは、家柄があまり良くなかった為、嫁としてシューマン家に快く迎え入れられず、資金援助に関しても、クララは孫のユーリエを通じて援助していた状態だった。)
孫や嫁に資金の援助をし続けた祖母クララは、遺書に、自分の残された子供だけでなく、アントーニエの子供達7人の孫に、その遺産を同等に分割して与えている。

女性として生涯にわたって自立し、その凛として生き方を貫いたクララ。
その手紙にはクララの教養の高さと、祖母として、また父親・母親がわりとなる愛情の深さが伝わってくるようだった。




1894年8月22日の手紙より *******************************

愛しのユーリエ
 あなたから頂いた返事には、あなたが自分自身の内面でいかに感動するものが少ないか、あなた自身の心が語るものがいかに貧弱か、そしてすべてに対していかにあなたが無頓着かを思わずにいられませんでした。それでも私はあなたの誕生日に祖母としての私の愛の形を示したいのです。そしてそれがあなたに小さな喜びを与えるのではないかと期待しています。でも遠くからは不便ですし、それにあなたが何を特別にほしいのかも分かりませんので、あなたに20マルク札を送ることにします。これであなたの望みを叶えることができますように。

(途中省略・・・・・・)

もうひとつ。遠出はしないで、散歩だけになさい。どこもここも湿っていますから。それに一度にあれもこれもやろうとしないで、ひとつひとつを楽しむこと。やさしいキスをあなたたちに。
                                          あなたのクラーラ