芸術的才能と経済的才能は反比例関係にあるという説がある。 インドネシア人はまさに、この適例であろう。 経済的才能に遅れるというよりは経済そのものを軽蔑しているインドネシア人はその分だけ芸術的才能に恵まれている。 その才能は美術、工芸、音楽の分野に発揮される。


インドネシアの芸術はワヤン やパチック、あるいは木彫りなとインドネシアの伝統を受け継ぐ分野で世界に知られている。 しかし、彼らの芸術的才能は伝続的民族芸術の筆囲を越えて近代的普逗芸術においても認められつつある。


絵画という芸術様式はインドネシアの在来のものにはなかった.そこヘヨーロッパからの画家が持ち込んだ紙とカンバスや絵具それに手法としての遠近法はインドネシア人の芸術的才能を刺激せずにはおかなかった。 好奇心の強いカルティニ も油絵を試みている。


タヒチ島のゴーギャンほど有名でないが、ウオルター・シュピーズ ("alterSpies)というドイツ人の画家がバリ島に移住してきた。 バリの風物に刺激された彼の絵画は熱帯絵画といわれ、オランダの『熱帯博物館』に収集されている。


彼の絵画は画風とか様式というよりは絵を描くことそのものであって、バリのウブド村の近くにアトリエを構え、周りにパリの青年芸術家が集まった。 彼らはヨーロッパ人に真似て油絵のような絵画を始めた。


現在ではウブド村 はr絵画村』としてバリ島観光のコースに組み込まれる賑わいで観光客は土産物に油絵を買う。 日本と比ぺると絵画の価格も嘘のように安い。 ただし、額縁はかさ張るのでカンパスの絵だけを持って帰る場合が多い。


ジョグジャカルタ、パリ島はインドネシア文化のセンターである。 このように文化の豊富な所には外国からも芸術家が集まって``芸術家村"を形成している。 今日では世界的な名声を得ているインドネシア人の画家もいる。


優れた民族文化であるインドネシアの各民族の木彫りの彫られる対象は神であり、祖先であり、霊であり何らかの信仰と結び付いていた。 その彼らの彫刻の才能は伝続様式の枠をこえた芸術のための彫刻が行われるようになった。


観光客用の土産にもならないので芸術で生活するのは大変であろう。 モチーフは西洋、手法はバリ島、貧しげであるが何かを秘めたような農夫を彫り上げた等身大の木彫りを見るとどうも彫った人の自画像の感じがする。


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ヨーロヅパから香料を求めてはるばるジヤワヘやってきた連中はそれまでのインド、アラビア、中国の商人と比べると航海術のような技術に若干優位であっただけで文化的にそう優越していたわけでもなかった。 


東インド会社時代にジャワヘ来たヨーロッパ人はジヤワの豊かな文化に接して驚嘆の声をあげた。 特にオランダは商売のためなら酷いことを平気でする獰猛なな商人であり、感化すべき文化を持ち合わせていたとは思えない。


しかし、このような時代を経てヨーロッパは技術、'経済においてのみならず文化においても急速に発展した。 近代になって西洋と東洋の間の文化の格差は異質的であるにしても、大きく拡大し西洋の優越は明らかとなった。


植民地の宗主国は政治・経済の支配を行う一方、高い文化の国として遅れた地域に普く文化を広めるというそれなりの使命観に燃えていた。 強制栽培制度のように植民地の収奪は事実としても、宗主国がそれなりの文化を植民地にもたらしたことも否定しえない。


当初の西洋の衝撃は科学、技術の[ハードとしての文明]であった。 しかしその文明の基盤となった[ソフトとして文化]の衝撃は政治、法律、経済、社会思想、文学、芸術などあらゆる分野に拡がっている。


植民地政庁はオランダが得意な近代土木技術によって港湾、運河を建設し、さらに潅概・排水工事によって農耕地は飛躍的に増加した。 この灌漑工事の一貫としてバリ島に創られたスバックは大きな富の遺産として現在まで受け継がれている。 


鉄道や道路を敷設した。 これらのの技術はそれを運営する〈ソフト面〉の社会システムと切り離しえないものである。 とりわけ個人主義、民主主義、法治主義の社会思想は西洋が産み出した近代思想である。 封建主義のジャワは植民地体制という枠の中ではあったが残酷な刑罰の廃止、気まぐれな税法の合理化などそれなりに近代化された。


やがて西洋思想によって目覚めたインドネシアの住民は値民地からの解放を求め、ナショナルアイデンティティの自覚とともに自らの国家としてインドネシアの独立を唱えるようになった。 そもそも民族国家の概念も民族主義、民主主義という西洋思想の産物である。


今、インドネシアでは西洋教育を受けたのは一握りの知識人ではない。 すぺての国民は西欧思想に慣れ親しんでいる。 政治勢力は弱くても知識人のリーダーシッブの下にインドネシアの国際化(≒西欧化)は止めえない勢いとなっている。 第二次大戦の前後の日本による植民地化がまた、西洋文明とは違った東洋文明の一旦を植え付けたことも忘れてはならない。 


インドネシアは他のアジア諸国同様、様々な文化の潮流に翻弄され同化されて今日に至り、あらたな独自のインドネシア文化創世の黎明期の最中にあるのではないだろうか。


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インドネシアは優れた伝統文化を有する古い文化の国である。 しかし『インドネシア文化』が国家としてのインドネシアの成立によって初めて存在しうるようになったという意味では文化の歴史は始まったばかりである。


インドネシア文化の基盤となるインドネシア人の価値観は①伝統文化、②イスラム教、③西洋文化の3つの文化要素に分解しうるであろう。


【1.伝統文化】各民族の伝統の文化は「多様性の中の統一として尊重されている。ゴトン・ロヨン のような伝統価値の近代政治システムヘの折り込みさえ行われている。 インドネシア人となってもジャワ人はジャワの伝統文化に拘束されるように、各民族は古来から引き継いできた文化を誇り高く維持するであろう。


【2.イスラム教】宗教はナショナルアイデンティティにとって微妙な存在であった。これまでのインドネシア文化の成立においてイスラム教の影は薄い。 どちらかというと伝統派と西欧派の連合勢力に押されて、あるいは両者の競合関係の中で宗教はアウトサイダー的立場に置かれた感がある。 しかし宗教はぺ一スとして潜在
しているので表面的に目立たないだけであろう。


【3.西洋文化】インドネシアという民族国家の概念自身が西洋文化の産物である。 植民地時代から西洋文化がインテリに与えた影響は大きい。 植民地という不幸な歴史も西洋文化を吸収する一つの手段であったという評価もありうる。 最もアクティプな要素として別項によることとしたい。


この3つの文化価値観は対立するものではない。 多かれ、少なかれインドネシア人はこの3要素のバランスの上にある。 


例えばスカルノ前大統領 のように一人で3要素を均等に兼ね備える人もいる。 現代のインドネシアを指導する勢力の価値観をどの要素が顕著であるかという程度の問題であるにしてもあえて大別すると以下のようになろうか。


①の伝統文化を代表するのは国軍

②を代表するのは宗教勢力

③の西洋文化を代表するのは大学を卒業したインテリ、テクノクラートのエリート層になろう。


つい先日の27日に死去したスハルト大統領 は特に①の国軍を中核とした現代インドネシア文化を創設したインドネシア人と言えるかも知れない。 その意義や真価は今後の評価を待たねばなるまい。


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