ヨーロヅパから香料を求めてはるばるジヤワヘやってきた連中はそれまでのインド、アラビア、中国の商人と比べると航海術のような技術に若干優位であっただけで文化的にそう優越していたわけでもなかった。 


東インド会社時代にジャワヘ来たヨーロッパ人はジヤワの豊かな文化に接して驚嘆の声をあげた。 特にオランダは商売のためなら酷いことを平気でする獰猛なな商人であり、感化すべき文化を持ち合わせていたとは思えない。


しかし、このような時代を経てヨーロッパは技術、'経済においてのみならず文化においても急速に発展した。 近代になって西洋と東洋の間の文化の格差は異質的であるにしても、大きく拡大し西洋の優越は明らかとなった。


植民地の宗主国は政治・経済の支配を行う一方、高い文化の国として遅れた地域に普く文化を広めるというそれなりの使命観に燃えていた。 強制栽培制度のように植民地の収奪は事実としても、宗主国がそれなりの文化を植民地にもたらしたことも否定しえない。


当初の西洋の衝撃は科学、技術の[ハードとしての文明]であった。 しかしその文明の基盤となった[ソフトとして文化]の衝撃は政治、法律、経済、社会思想、文学、芸術などあらゆる分野に拡がっている。


植民地政庁はオランダが得意な近代土木技術によって港湾、運河を建設し、さらに潅概・排水工事によって農耕地は飛躍的に増加した。 この灌漑工事の一貫としてバリ島に創られたスバックは大きな富の遺産として現在まで受け継がれている。 


鉄道や道路を敷設した。 これらのの技術はそれを運営する〈ソフト面〉の社会システムと切り離しえないものである。 とりわけ個人主義、民主主義、法治主義の社会思想は西洋が産み出した近代思想である。 封建主義のジャワは植民地体制という枠の中ではあったが残酷な刑罰の廃止、気まぐれな税法の合理化などそれなりに近代化された。


やがて西洋思想によって目覚めたインドネシアの住民は値民地からの解放を求め、ナショナルアイデンティティの自覚とともに自らの国家としてインドネシアの独立を唱えるようになった。 そもそも民族国家の概念も民族主義、民主主義という西洋思想の産物である。


今、インドネシアでは西洋教育を受けたのは一握りの知識人ではない。 すぺての国民は西欧思想に慣れ親しんでいる。 政治勢力は弱くても知識人のリーダーシッブの下にインドネシアの国際化(≒西欧化)は止めえない勢いとなっている。 第二次大戦の前後の日本による植民地化がまた、西洋文明とは違った東洋文明の一旦を植え付けたことも忘れてはならない。 


インドネシアは他のアジア諸国同様、様々な文化の潮流に翻弄され同化されて今日に至り、あらたな独自のインドネシア文化創世の黎明期の最中にあるのではないだろうか。


ワールド悠遊クラブ