まず初めに初期に必要な支援について
初期には「衣食住」と、もう一つの「い しょく じゅう(医・職・従)」があげられます。
「医・職・従」
★医療
★職業(職域)
★従事者(従業員)
医療には福祉士なども含まれ、「業界支援(同業者支援)・職域支援(業務支援)」としても重要になっていきます。
当然ながら、その場の人たちは被災しながらも我が職での役務をこなすこととなり、業界支援では、何といっても同業者への助っ人は大変重要になるのです。
医療や製造業などで行われる、同じ分野・同業によるバックアップと援助がなければ不眠不休となってしまい、週単位での稼働に支障をもたらします。
職域支援といえば理髪店や美容師さんが避難者の整髪を行ったり、飲食店ではお店にある調理道具を炊き出しの道具に提供したりと、発生当初からその場で組み立てられる自発的活動と、保険会社や役所の様な手続き作業が多い部門で「業務支援」として、同じ職務先を支援する活動があげられます。非常時協定を結んでいる自治体と行政からの応援も同様ですね。
今回の能登半島地震では、広域消防援助隊をはじめ、水道局・地方整備局、電力会社といったインフラへの応援体も全国規模で継続して参入。特に水道のパイプラインは人の住んでいない区域でも損傷があり、浄水所のない奥能登地域では長期断水を余儀なくされました。
地形と同じくして設備もボトルネックとなることで、道路の下を通している上下水道の復旧には先ずは道路の啓開(けいかい)が急務で、あわせて住宅地への入り込み経路も確保しないといけないのです。
そこに、資機材を持つ団体、専従できる活動体などが民間組織で参入。
発生当初からの民間組織の活動は被災者対応が主で、ライフライン回復までにも必要となるトイレ・避難所設備・飲食料、避難所と自宅避難者が用いられるブルーシートやテントといった資機材を投入しました。
ここで一般のボランティアとの違いを述べる必要があるのですが、あくまでも初期は「救助期」といって、人命の確保が優先されます。
この救助期には「救い出す命」と「救い出された命・逃げ出せた命」の二つがあって、前者には公設部門のレスキューが最前線となりますし、並走して民間の救助犬などが動きます。後者には医療から福祉、そして確立された民間団体(例えば、緊急時医療物資搬送や非常食糧輸送など)が備えてあった品々を送り込む動きを初期に行います。ひとたび避難所へアクセスすれば、次に必要となる品々のメニューと個数を概算把握し、二次活動に結び付けていきます。
ここが一般的にいう単なるボランティアとの違いでしょうね。そして交通事情も考慮して募集のタイミングを見計らっているというのが当初の状態です。
その交通事情というのも、ここ能登の地形の特徴で、中央に山、両脇を海という半島の中でも隔離された形状に、谷間をくりぬいたように部落が出来ています。非常時に使える高規格道路(里山海道)も一本のみで、能登空港付近までしか通ていません。そこから北部へは標準国道となります。
どう考えても消防隊のポンプ車以上の大きさがある車両は通行できそうにない。
道路というのは、補修する際もセンター付近で分割して補修していますよね。この部分が平素でも割れたりしてくるんです。
つまり、幅員が半分になってしまうわけで、それが縦横に亀裂が入ってしまうと道路自体が崩落ということになるのです。
そういった状況下に、一般車両が加算されると交通整理にも人員がさかれ、やるべきことに着手できない。
これを避けたというのが一本道の半島事象です。
さて、当時の街の状況といえば、発災が1月1日の16時。夕暮れが迫る時間帯。
元日はそもそも営業しているところも少なく、強震を受けた後の商品散乱もあったりと、ショッピングモールをはじめ、営業している大小のお店はその日の営業を短縮し、閉店させた店舗もあったといいます。店舗側からすれば、施設の状況を把握するため、損傷部位とあわせて従業員やテナントの調査も必要で、来客者の保安を図るためにも一時閉鎖を行うこととなったのでしょう。
来客者へは緊急地震速報が流れてから、安全体勢をとる旨のアナウンスと売り場従業員の肉声指示。強震を受け、悲鳴の上がる店舗内でもその場で立ちすくむ人が多いという実態が映像からうかがえます。
(映像は参考です)
店舗従業員たちは翌日営業に備え、散乱物の整理に入る。
金沢市近郊(津幡町、白山市)のS/C従業員の中には、帰路の交通網寸断で帰宅をあきらめる人も居り、帰宅困難者への対応施設の情報が全く入ってこなかったのが残念に思う。
来客者にとっては商業施設に留まることが出来るのか?も知りたいところではある。
また、地震時の滞留場所も誘導表示が必要と思われ、施設のキャパに合わせたスペースも日ごろから案内ポスターなどで知らせておくべきかと感じた。
震度5強
来客者は揺れが収まった後には、人間の心理である帰宅本能(帰巣本能)が発生。
立体駐車場の安全確認が済む前に、かなりの人が自動車を走らせた模様。
この時の店内の様子が見えないが、非常用品を求められただろうか?営業案内はどうだったのだろうか?
帰宅できた人たちには、自宅の片づけが待っていた。
共同住宅に暮らす人は、ガス保安器の存在がわからず、ガス会社への遮断復旧の連絡すら出来ていないことも見えてきた。
影響の範囲はとめどなくでてくる。
震度6に近い長い揺れを迎えた富山県氷見市や石川県内灘町と津幡町では先ず断水が発生。電力は部分的に停電となるも復旧へは激震地より相当早い。
液状化現象の発生は歩行避難者にも影響が出た。
車いす利用者などは自力避難できない状況で、ここで初めて要支援者リストの出番となる。
元日の夕刻とあって、人々は一年の中で最もくつろいでいたことで、在宅率が高く、非常時行動に時間をかけずに移行できたところもあった。
内灘町での避難についてはほぼ自主的に動く人が多く、日暮れ前に移動させたい思いはあるが、一次・指定避難場所も被災し、損傷部位を調べるにも人手が必要となり、入り口を開錠させるまでにも即刻とはならないのも事実だった。
異常個所には停電も含まれ、人は集まれど夕暮れとなってからの避難誘導には手持ちの明かりだけでは危険は避けられない。
街灯は数年前の事業計画でLED化されている。この街灯のすべてにバックアップバッテーリーをつけることも非常時の策だと感じた。
翌2日
この日が初売りとしていた店舗に訪れるも、店内散乱のため、臨時休業の店舗が多くあった。
その後の聴取では、初売りの準備で出勤してみて店内の荒れ方に愕然したという。
金沢市田上さくらにある「DCMカーマ金沢田上店」では、元日休業、この日が初売りということで店内散乱の部位を歩行禁止にしながらの営業を実施。来客数は閑散ではあるものの、飲料水とポリタンク類はすでに売り切れとなっていた。
商業施設で見えてきたのは陳列方法。
今回は酒屋が休業とあって立ち寄ることが出来なかったが、酒瓶はかなり落下し、破損していたはずだ。
様々なところで日常を失った地域をまわり、1月2日の夕方までに拠点先の南砺市福光と金沢市・津幡町を環状線のごとく2往復することになり、かなり慌ただしかった。
帰所後、状況の把握を行いながら、民間防災のホームページとFacebookにて特設サイトを立ち上げ、小刻みに入ってくる情報を基に現況把握に努める。
自衛隊ヘリ・県防災ヘリ・県警ヘリ・国交省による航空偵察が開始。
震災3日目
防災小松空港が開局
各地からの航空機が応援に君臨。
寝るに寝られない三が日で、この日から石川県をはじめとする各県の航空隊、防災ヘリ、航空撮影へり、報道ヘリが北陸地方の空を飛び交うことになる。
いよいよ空からの全貌が見え始め、被害の全容解明の一歩が始まった。
進入路となる陸路は奥能登先端に行くにつれ寸断。
孤立部への航空輸送と海上からの上陸が計画される。
能登への入込は陸路では能越方向からは富山県氷見市も被害が多く、通行不能となり、金沢方面からの山側環状道路・国道8号線から里山海道が緊急輸送路となった。
石川県と富山県のスーパーとストアでは「おにぎり」「菓子パン」類の納品がストップ。製造元との災害時協定による被災地専用に製造を行い、優先的に被災地へ納められた。
ちなみに、毎年頂いている年賀状が届いていないというのも、何かしらの影響があるのかもしれないと思っている。元日配達分以外の年賀状が無かったのが気がかりだ。
以上、震災復興の策略を考える備忘録として、また、復興の間にも東海・東南海・南海の大地震があるかもしれません。
これらに間に合わせるためにも自分目線での思いを残しておきます。
最後に、災害は「私たちの都合には合わせてくれない」ということが教訓ですよ。