天王祭り、朝祭り | にっくんのブログ

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 翌日の朝から行われるのが、朝祭です。朝祭が本祭なのですが、宵祭りに比べ、ずいぶんと人出が少なくなるため、ゆっくりと見ることが出来ます。
 クリスマスとおなじように、前夜祭を派手に行い、翌朝の本祭りを厳かに行うのでしょう。


車楽舟

車楽舟(だんじりふね)


 宵祭りで使われた巻藁船は、装いを新たにし、屋形の上に大小(高低)二つの屋台を乗せます。後ろの大屋台には四本の柱で支えられた屋根が載せられます。そして大小それぞれの屋台には能人形が据え付けられます。
 朝祭ではこの船のことを車楽船(だんじりふね)と呼びます。
 宵祭りの時に出た今市場、筏場、下構、堤下、米之座の五艘に、市江車が加わり、計六艘で朝祭は進行していきます。



市江車

市江車


 市江とは津島の南にある地域で、弥富の北部(荷之上、五之三、鯏浦(うぐいうら))から佐屋町の南部(西保、東保、西條、東條)あたりを指します。かつては独立した島でした。伝説では伊勢湾を上ってきた須佐之男命が、最初にこの市江島に上陸したと言われています。

 朝祭ではこの市江車が先頭になります。
 この市江車は、他の車楽舟と違い、屋形の屋根の上の大小の屋台が離れており、反り橋で繋がれ、大屋台の上の屋根も唐破風となっています。そして屋形の屋根の前方には紅梅、白梅の大枝が取り付けられます。このとき使われる紅白梅は紅白の紙の造花で、榎の枝に付けられます。
 市江車は他の車楽船よりも少し大きいです。高さは水面から約十五メートルになります。
 また社紋も木瓜紋ではなく三巴紋となっています。
 屋形中段には稚児一人と、囃子方の楽打ち(太鼓)一人と下拍子(締太鼓)三人、笛役、乗方衆が乗ります。稚児は三歳から五歳までの男子。楽打ち、下拍子は九歳から十二歳までの子供になります。





鉾持衆

鉾持衆


 市江車には十人の鉾持衆が乗ります。鉾は悪霊払い、怨霊払いのために使われます。
天王川の中程まで来ると、下帯姿の若者が中から現れ、長さ一丈(三メートル)の布鉾をもち、天王川に飛び込みます。布鉾は青竹の先を割り、そこに椹(さわら)の木で作られた剣が三本が麻紐で取り付けられ、その下に半反のサラシの布が取り付けられます。
 鉾持衆は一人ずつ、舳先から飛び込み、御旅所前まで泳いで渡ります。そして御旅所で神輿に拝礼し、津島神社に向かいます、一番鉾、二番鉾は津島神社社務所に向かい、三番鉾は石橋に張られたしめ縄を切り、拝殿に布鉾を立てて奉納します。布鉾から滴る水滴は病を治すと言われています。



布鉾

布鉾 




御旅所前

御旅所前に集結する車楽舟


 車楽舟が御旅所前に到着すると、稚児をはじめ一行は車楽舟を下り、御旅所で神輿に礼拝をします。このとき稚児は地に足を付くことが出来ないので、肩車をされます。
 六艘の車楽舟が御旅所前に到着し、稚児たちがみな車山舟を下り御旅所の神輿に礼拝します。




稚児

肩車された稚児



神輿

神輿


 そして御旅所に鎮座されていた神輿が還御されます。神輿の後を肩車された稚児たち一行が、後に続きます。
 そして津島神社拝殿で、奏楽、盃ごとが行われ、それが終わると、それぞれの車山船に戻り、車河戸に戻ります。




江戸時代には市江車をはじめ、計六艘の車楽舟の他に、五艘の大山舟が出ました。大山舟は、車楽舟と同じく二艘の舟を横に繋ぎ、その上に三段の山を組み上げ綺麗な幕を張ります。その高さは約十二、六メートルにもなります。さらにその上に一間の野山、二間の人形柱、そして1間の屋台を組み上げます。その高さは実に二〇メートルもありました。十一艘もの車楽舟、大山舟が天王川を渡る姿は、さぞ壮観だったでしょう。
 しかし明治に入ると尾張藩の援助がなくなり、経済的な理由から明治6年に廃止されました。