末盛城址・城山八幡宮
名古屋の中心部から広小路を東に進むと、覚王山を過ぎて本山の手前左手にこんもりとした緑の木々で覆われた丘が見えてきます。その木々の間から、古い洋館の三角屋根をした塔がにょきっと突き出しています。その塔は昭和塾堂といい、戦前からある古い建物です。そしてこのこんもりとした丘は城山八幡宮の境内になります。
この城山八幡の建つ土地は、戦国時代、末盛城のありました。
末盛城は天文17年(1548年)織田信長の父、織田信秀によって築城されました。その前年、美濃の斉藤道三に大敗を喫した信秀は、宿老の平手秀政の進言により、道三と和睦をし、道三の娘、帰蝶を嫡男、信長の嫁に迎えました。そして美濃への野心を捨てる証として、美濃に近い古渡城から、三河方面に近い末盛に居城を移しました。
古渡城は脆弱な平城でした。信秀が道三に攻められた美濃の大垣城の救援に赴いている最中に、信秀の留守を狙い、道三の動きに呼応した清洲の織田大和守達勝の手勢に攻められました。急遽、信秀は古渡城に引き返し、落城は免れましたが、平城だった古渡城の脆弱さを露呈しました.その反省からか末盛城は、比髙約20メートルほどの丘の上に築かれた平山城でした。今の自由が丘辺りの丘陵地から続く舌状台地の南端に位置し、東西南の三方を崖に囲まれ、北面も西方が大きく台地が抉れ、北面の一部を除きほぼ四方が崖に囲まれているという難攻の城となりました。
今の城山八幡のある位置に本丸が置かれ、西に二の丸が置かれました。北側の台地とつながる北面を弱点とし、本丸の北側に郭(くるわ)がもうけられ、本丸の虎口に面して丸馬出しが造られるなど、守りの重点が置かれていました。
天文21年(1552年)に織田信秀がこの城で亡くなると(信秀の亡くなった年には諸説あります)、織田家の本城である末盛城は織田信長の弟、織田信行(信勝とも言う)が相続しました。信行は末盛城の南に桃巌寺を建立し、父信秀を弔いました。
その後、信長と信行の対立が決定的になり、弘治2年(1556年)8月24日、織田家の重臣、林秀偵、美作守兄弟。信行の家老、柴田勝家と共に、信長の居城、清洲城との中間に位置する稲生が原で合戦となりますが、合戦は信長が勝利し、信行は末盛城に逃げ戻ります。この時は二人の母、土田御前の仲立ちで信行は許されますが、翌弘治3年(1557年)再び信長に反旗を翻します。これは岩倉の織田伊勢守信安に唆され、信長の直轄領の春日井郡の篠木三郷の横領を計ったと言われています。しかし信行の家老、柴田勝家が信長に内通し、信長の知ることになりました。二度目の反乱に信長は許さず、信長は病気で伏せっていると偽り、信行を見舞いに来させ、北の櫓に幽閉し殺害しています。
城山八幡宮
その後、末盛城は廃城となりました。江戸時代は白山社の社が建っていましたが、明治に入り八幡社が創建されました。
名古屋市内の城址にしては珍しく、神社の境内にあるせいか、城山八幡を囲む形で空堀の遺構が残っています。また中腹にも空堀の跡が残っています。
空堀の遺構
昭和塾堂は愛知県が青年の教育の場として、昭和3年に城山八幡宮の境内に建てられました。コンクリート造りの洋風の建物に、和風の屋根を載せた帝冠様式の建物として知られています。地上二階地下一階。中央の四階建ての塔を中心に三方に建物が延び、上から見ると“人”の字を形づくっています。
建坪820.175平方メートル、総床面積は2064.7平方メートル。建物の中には六〇〇人収容の講堂、神殿、教室、食堂、図書室、寝室、浴室、貴賓室などがありました。
戦時中は陸軍の東海軍司令部が置かれました。戦後は名古屋大学医学部、県教育文化研究所・職員研修所、そして千種区役所の仮庁舎をえて、現在は愛知学院大学歯学部の研究棟となっています。
昭和塾堂