名古屋城 | にっくんのブログ

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。

名古屋城天守閣


にっくんのブログ-名古屋城大天守閣



名古屋城天守閣の二階で巨大城郭名古屋城展というのをやっていたので見てきました。
 確かに名古屋城の天守閣を目の前にすると、その大きさを実感します。
 名古屋城は徳川家康により築かれました。慶長15年(16010年)に西国の20家の外様代目ように命じて普請工事(堀や石垣を築く土木工事)が始まりました。普請が終わった9ヶ月後には作事(建物を建築する工事)に移り大坂冬の陣の始まる慶長19年まで工事が続けられました。天守閣は慶長16年頃に完成しています。
 高さは本丸から約12.4メートルの石垣の上に36.1メートルの天守閣が聳えています。石垣と合わせた高さは約48メートル。その屋根にはさらに高さ約2.6メートルの金の鯱鉾が乗っており、鯱鉾を含めるとゆうに50メートルを超えています。
 天守閣の幅は平側で約36.7メートル。妻側で約32.5メートルあります。
 確かに間近で見ると、その大きさに圧倒されます。
 しかし上には上がある物で、三代将軍家光が寛永年間に建てた江戸城の天守閣は、本丸から約13.6メートルの高さの石垣の上に、高さ約44.5メートルの巨大な天守閣が聳えていました。その合計は約58メートル。その屋根には名古屋城を凌ぐ高さ約3メートルの金の鯱鉾が乗っていました。 幅は平側で約38.3メートル。妻側で約34メートルもあり、どの数字をとっても名古屋城を凌いでいる最大の天守閣です。
 しかし延べ床面積だけは名古屋城が広くなっています。名古屋城は床面積が約4385.5平方メートルに対し、江戸城は約3995.5平方メートルと390平方メートルほど名古屋城が広くなっています。
 現在も残る姫路城の大天守の延床面積が2420.9平方メールだから、名古屋城の天守閣は姫路城の倍近い広さを持っていました。
 初層の面積は江戸城の方が広いのですが、二層めは江戸城は小さくなっているのに対し、名古屋城は初層と二層めが同じ広さになっています。三層めから上は名古屋城の方が広くなっています。
 天守閣には望楼式と、層塔式の二種類があります。望楼式は入母屋の殿舎の屋根の上に望楼を乗せたもので、初期の天守閣の様式です。一方、層塔式は各階を積み重ねる方法で、江戸時代以降に見られるようになりました。名古屋城も江戸城も層塔式の天守閣になります。
 層塔式は一段ごとに面積が小さくなるのですが、名古屋城の場合は初層と二層めが同じ大きさになっています。これは望楼式の手法を取り入れたものです。
 天守閣を高くするために、土台となる殿舎を二階建てにする方法があります。その場合初層と二層めがほぼ同じ大きさになります。名古屋城は望楼式の名残を大きく残した天守閣になります。
 初層と二層めをお同じ大きさにすることで、名古屋城の場合、二層めに石落としを設けることが出来ました。二層めと三層め間の屋根に乗る、それぞれ二つの千鳥破風や唐破風の下の出窓が石落としになります。初層と二層めを同大にすることで、二層めも戦闘に使えるという戦を意識した天守閣です。
 城郭建築が最も発達した慶長期を代表する天守閣が、名古屋城と言えるでしょう。
 天守閣の大きさは江戸城が最大で、徳川秀忠によって再建した大坂城がそれに続き、名古屋城の天守閣は三番目の大きさですが、江戸城は1657年の明暦の大火で焼失してから再建されず、大坂城も寛文5年(1665年)に落電により焼失してから天守台のみが残るだけとなりましたが、名古屋城は昭和20年(1945年)の爆撃により焼失するまで334年間名古屋のシンボルとして聳えてきました。

 昭和34年。大天守、小天守が鉄筋鉄骨コンクリート造りで再建されました。



橋台から見た天守閣               橋台の塀


にっくんのブログ-橋台から見た天守閣 にっくんのブログ-正門


 名古屋城の小天守と大天守を結ぶ通路は露天となっており、これを橋台と呼び、名古屋城にだけあるものです。
 他の天守は熊本城も姫路城、松本城も渡り櫓で結ばれているのが普通で、両脇に塀だけがあるのはちょっと寂しい気がします。
 しかしそれには延焼を防ぐという理由がありました。もし小天守が焼け落ちても大天守にまでは火が回らないという工夫でした。
 白漆喰を厚く塗り込めた城郭建築は火に強く、姫路城なども焼夷弾が落ちているのですが、屋根を滑り落ちて下に落ちたために幸いにも焼失を免れました。
 名古屋城の場合、金の鯱鉾を下ろすために、足場が組まれていたため、足場に焼夷弾がひっかかり燃え、炎が天守閣内部に燃え移り焼失してしまいました。
 巨大な大天守が火の塊となって燃えてしまったら、隣の小天守など堪ったものではありません。延焼を防ぐために設けられた橋台は機能せず、小天守も焼け落ちてしまいました。
 昭和20年五月十四日のことでした。この日、大天守、小天守の他に、本丸御殿、本丸北東にある丑寅隅櫓、表一之門、東一之門、名古屋城の玄関である蓮池門(明治期に江戸城の蓮池門を移築した門)などが焼失しました。
 幸いにも本丸の南西隅櫓、南東隅櫓。御深井丸の通称清洲櫓と呼ばれている北西隅櫓の三つの櫓が戦災を免れました。




名古屋城正門


にっくんのブログ-橋台の塀


 西の丸にあります。元々は榎木御門という門があったのですが、名古屋離宮になった際、門の高さが低くて馬車の通過が困難と言うことで、江戸城の蓮池門が移築されました。

 昭和20年五月十四日に天守閣、本丸御殿とともに焼失しましたが、昭和34年に再建されました。




東南隅櫓


にっくんのブログ-東南隅櫓


 名古屋城の本丸には、東南隅櫓。南西隅櫓、北東隅櫓の三つの隅櫓がありました。三つの櫓ともに二層三重の櫓でほぼ同じ形でしたが、二重めに張り出した石落としと、その上に乗る千鳥破風の意匠が違っています。

 北東隅櫓が戦災で喪失しましたが、南東。南西の二つの隅櫓が幸いにも戦災を免れ現存し、重要文化財に指定されています。