JR宝塚線脱線事故からきょうで19年。
私はまだ結婚前(婚約中)で、ちくわ国に住んでいました。
高熱で明け方まで寝付けなかった私が目覚めたのは10時近く。
おもむろにテレビをつけると信じられない光景が!
土地勘の無い私でしたが、聞こえてくる地名は彼からよく聞くものでした。
朝が苦手でフレックス勤務の彼は、この電車に乗っていたかもしれない。
慌てて電話をしましたが繋がりません。
メールしても返信がきません。
正午過ぎ。
熱はまだ下がらなかったけど、とりあえず新幹線に乗ろうと支度をしていた時、
「どした?何か急用かな?いま定食の汁が服についちゃって参ったよ」
と呑気な返信。
事故のことを、全く知らなかったそうです。
「俺の会社、阪急路線だし」だそうで←知らんわ👊
(あの頃は情報がポンポンと通知されてくる時代じゃなかったですからね)
90°に曲がってペシャンコになり、マンションにへばりついた2両目。
あの映像は、私の眼の奥から離れることがありません。
でもその時は「映像」での、ことでした。
結婚してこちらに住み始めてしばらく、JR線に電車は来ませんでした。
その様子を直に見て、初めて現実を思い知らされた気がします。
死者は107人、負傷者も562人という大惨事となりました。
それから何回かの引越しを経て、長男が産まれたわけですが、
やがて、近所の保育所の園庭開放に行くのが日課になりました。
長男は歩けるようになると、電車を見たがるようになりました。
園庭の前後にも堤防沿いに行き、鉄橋を通る電車に手を振りました。
お砂場で遊ぶようになると、山を作ってトンネルを掘り、
イメージの電車を走らせるのに夢中でした。
そしてある時ふざけて「ガッシャーン、だっちぇ〜ん」とやったのです。
するとすぐママ友に「ココではその言葉は慎まないといけない」と言われました。
「地域柄、石を投げれば被害者の関係者に当たる🎯。
実はPTSDになってる人が近くに居るかもしれない」と。
薄れかけていたあの映像が、まざまざと甦りました。
すっかり鉄ヲタになった長男は、電車図鑑を引き摺って一日中持ち歩き、
家ではプラレールでずっと遊んでいました。
そして時々ふざけて、両手に持った電車同士をゴッチンコさせるんです。
子どもには少し可哀想だと思いましたが…その都度叱りました。
成長すればその理由もわかると信じて。
現在、職員の7割が、事故の時に居なかった人達だそうです。
19年という年月を感じさせられます。
JAL123便にしても、地下鉄サリンにしても、JR宝塚線にしても、
年月というものはどうしても事件や事故を風化させてしまいます。
でも、あの「映像」を目に焼き付けた私たちの世代は、
それをリアルタイムで知らない世代にも伝えていく責任があるのだと思います。
「自分が体験していないから知らない」のではなく、
痛みを負った者の声を聞き、その痛みを想像できる者になって欲しい。
将来を担う若者世代に期待しています。