天上絵師KAWAZO旧ブログ -24ページ目

世の流れと逆行するかも知れないけれど <怒り>

怒りというのは、個の確立、確定、健全な生育のために、非常に重要な感情である。
その着火点、強度、温度、方向性などに個人差はあるにせよ。

本来なら、個の境界線を明確化する最前線にあるはずの感情ではないか。


その最前線の動きが鈍いというのは、人としての自由を守る上で大変なマイナス要素だと思う。
確かに負荷は高いが、それだけ重要で、核に近いものだということ。


それをネガティブとし、避け、嫌い、あってはならないもののように扱い、ましてや消そうとする、手放そうとするなど、人という存在を犯すことだ。

闇雲に撒き散らす身勝手な怒りと、個の尊厳を守る怒りを混同するな。



理性的であることと、怒りを失うことは全く違う。

個の確立も尊厳の正常な維持も無き者が、偉大なる先人の到達点のみを見て「怒らないのが人として立派なこと」として真似るから、人としての軸さえ見失う。



偉人を真似るなら、その人が通った道程を、そこで舐めてきた辛酸を、痛みを、怒りを、慟哭を、己に同化せよ。

それを我がものとし、さらに己が軸から出流る自身の本意に乗せてようやく、偉人の境地を垣間見れる。



人としての健全な怒り無き者に、愛を与えることができるのか。

ましてや誰かを救うなど。


己が己を律することも、正常なる感情感覚をしかと捉えることもできぬ者は、溺れゆく者を救うつもりでしきれず、共に沈むがオチ。

己を救いたいがために他を救おうとする、その歪んだ転移と奢りにより溺死者を増やす前に、前線から退け。


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最近流したつぶやきの、まとめ。

私は、つい最近まで、感情の起伏をほとんど体感できない状態で生きていた。
そのことに気がついてさえいなかった。

ただ、楽しさや嬉しさを…「感じたらいいな」と感じる感覚も非常に薄いのは、わかっていた。

楽しさや嬉しさ、幸せを体感するエリアが針の穴ほども狭くピンポイントでそこに来ないと感じられないのか…など、いろいろと、考えてみた。

しかし、結局、いきついた結論は。

全ての感情感覚について、「知覚体感する」ことが非常に困難か状態にいる

ということだった。


ネガティブ、ポジティブ…という言い方は、好きではない。
が、ひとことで端的に表す他の単語が見つからないので、まだ当面は便宜上でも使っていく。


いわゆる、世で言われるネガティブな感情感覚。

怒り、悲しみ、苦しみ、痛み。
種々の苦悩

それらを感じにくい代わりに、楽しさ嬉しさ幸せといったものも、感じにくい。

当然だ。

それらは全て、人が人として生きるうえで必要だから存在する。

それが極限まで薄くなれば、ネガティブもポジティブも、等し並み薄くなる。

だから、ネガティブ感覚でシンドイ思いをすることが少ないだけ、ポジティブ感覚で楽しめることも少ない。


それに気がつき始めてからは、随分、体感覚の方はマシに働くようになってきた。


しかし、今でも全く動かない…極端に動きが鈍いのが、この、「怒り」だ。


怒りにはエネルギーがいる。
瞬発力がいる。
集中力がいる。

強ければ、自分にかかる負荷が非常に高い。

「なぜ、そんな時に怒らない」

と聞かれても。

その時、怒りが全く、一切、感じられないから。
怒ることができない。


今の世の中の主流は、怒りなどのネガティブは手放せコール大合唱だ。

だから、私のように、怒らない人間を
「なんてスバラシイ」とか、言うのかも知れない。

しかし。

どこも、素晴らしくなどない。

よくもない。

無理矢理怒ることはない、とは、思う。

大したことないのに、いちいち噴火している必要はないと思う。

キャパシティが広いから、他の人間なら怒ってしまうところが、鷹揚でいられるのだ。

…と、言われたこともある。


しかし。

果たして、そうか。

全てを等し並みに「他人事」のように傍観している故の、平板で薄っぺらいバーチャル感覚しか持っていないだけではないか。


自分観察、自分再構成は、まだ、始まったばかりだ。



あなたは、「これが自分だ」と、心の底から自信を持って言い切ることができるか?

二元論の世に生きて。
二元論で物事を考えて。
ネガとポジに分けて考えて。

どっが自分だ、と区別して。

どちらも自分なら、区別の必要はない。

そこに名前をつける必要もない。



しかし、名前がなければ、認識理解も、しづらい。


そもそも、そうした観念が、すでに障壁なのか?


当分、そんな自問が続くと予想。