変な英語、未来形
英語の文を理解するのに、日本語に変換して意味をとってはいけません。そういう勉強をしてはいけません。これは英語学習の大原則です。
ところで、ある中学生向けの教材で、変な日本語訳がありました。
「彼女は今夜テレビを見るつもりです。」
She will watch TV tonight.
または
She is going to watch TV tonight.
日本語訳を載せている時点で、この教材は最悪ですが、この日本語は変です。何の脈絡もなくこういう日本語を使うことはありません。彼女がどういうつもりかなどは、普通は本人に確認しないとわかりません。もちろん、英語でwillあるいはbe going toを使ってもそういう意味ではありません。基本的にwillは意志を表しますが、一人称以外は単純に未来を表し、一人称であっても意志ではなく、予想される未来を言うことができます。根拠がある場合はどちらかというとbe going toを使う場合が多い、という程度の差はあります。
こういうことを書くと、youが主語の疑問文はそうではないだろうと言う人もいるでしょうが、willは意志も示すということであって、そうでない場合も表します。単純未来、意志未来という言葉でパターンを分けることはできず、Iやyouの疑問文では両方の意味を持ちます。
日本語に戻って、他人の意思を勝手に表現するというのは、変な話で、そういうことを平気で書く日本人がいるのは、びっくりです。他人の自由な精神を尊重しましょう。憲法でも保証されています。さらに、この教材では、be going toを「つもりです」と訳しており、大きな間違いをしています。be going toは絶対に意志を示す意味ではありません。日本語を結び付けようとすることだけでも、使ってはいけない教材ですが、間違った意味を教えるとは、とんでもない教材です。
しかし、これはこの教材だけのことではないでしょう。日本の英語教育のひどさを示していると言えます。
「燕になりたい」
一緒に演奏してくださる方を常時募集しているのですが、そのために、時々演奏をアップしていこうと思います。興味持たれたら是非メッセージをください。
今回は、チェン・ミンさんの二胡演奏で有名な「燕になりたい」
先日ある施設で演奏しましたが、二度ほど通しただけの練習とはいえ、練習の時の伸び伸びとした感じが全くなくなってしまった本番の演奏です。練習なしの当日の二曲目なので、音程、弓使いの不安定さ、大目にみてください。30分も弾いたらもっとうまく弾けたはず!?適当に録音したので、ハープとの音量バランスは悪いです。
演奏 燕になりたい
パガニーニの難しさ
カプリスを一通り全部やった、という若者は普通にいる。その昔は、プロでさえパガニーニのカプリスを一つでも弾こうものなら大したもので驚かれたものであるが、それは今でも変わらず、一通りやったという若者に本番をお願いしても拒絶されることになるだろう。
パガニーニはテクニックの難しさが特徴で、それしかないのか、と友人から聞かれたことがある。そう言われてみれば、どこかの雑誌か本で、パガニーニは難しさだけ、と書いている人がいたように思う。当然私の答えは、とんでもない、名曲ぞろいだよ、と答えたのであるが、もしかすると単にテクニックをひけらかすだけの演奏というのが、世の中にはあるのかもしれないと思った。
モーツァルトは難しいと思う。譜面を見れば誰にでも弾けそうだが、実はその曲の持つ価値を表現するのは、結構難しく、練習を繰り返さなければならない。さらに、練習を続けるに従って、その曲の新たな価値にどんどん気づくようになるので、いつまでたっても未完の演奏しかできないのである。パガニーニの場合は、最初から難しい。しかし、その難しさは練習によって克服できる。本当の難しさは、モーツァルトと同じように、その曲の持つ価値を表現するためのさらなるテクニックである。つまり、パガニーニの難しさは曲を表現するための技術の高さにある。楽譜の見かけの難しさがパガニーニの難しさではない。パガニーニは芸術性とテクニックが一体となっているのだ。リストがパガニーニのカプリス17番の演奏を聴いて、ピアノではそういう表現ができないと言った、その表現にはとんでもないテクニックが必要なのである。パガニーニがどういう演奏をしたのか、今では想像すらできないが、それを求める価値は十分ある。
プロとアマの聞き分け、その差
テレビでプロとアマの女性コーラスを聞き分けるブラインドテストをやっていた。Aのコーラスはアルトがきちんと音程を取っていて声量もあり、これは明らかにプロであると思われたが、ソプラノの声が揃っておらず、ソプラノとアルトのバランも悪かった。Bのコーラスの方がバランスは良いが、アルトが隠れ過ぎているだけでなく、音程が怪しいところがあり、明らかにアマチュアだがとてもいいコーラスであると感じた。
参加している芸能人の中では、声の質を聞いた人はAを選んだが、ほとんどがBがプロであると答え、正解が出される前は、間違いなくBがプロであると思い込んでいた。当然そのほとんどの人は間違えたわけだが、こんなに多くの人が間違えるのは、それだけBのママさんコーラスが上手だったからだと思う。逆に言えば、Aのプロのコーラスは大してうまくなかったのである。ママさんコータスの方が上手であったのだ。
方向性の違い2
どういうつもりで言ったのかはだいたい想像がつきますが,長いのは重々承知しています。だから、退屈したりしないよう、そこまでレベルを持っていくように練習してきています。現状がこうだから未来はこうなる、と単なる因果関係だけしか考えられない人間は成長しません。現状がこうだけど,こういう結果が欲しいからそのためにこうする,というのが人間であり,そこに成長があります。
もともと、演奏会をどういう方向で行なうかという段階で、まずはやりたい曲を中心に、時間配分も公平にということで組み立ててきましたが,共演者達の難しいからこの曲やめたとか,いろいろあって、私の出番が多くなってしまったというのはあります。もっと先を見て練習する私と現状でなんとか済まそうとする共演者とでは,見ているものも考えていることも、全然違っているのでした。
時間をかけて準備してきたし、今回の曲の中では一番出来のいい曲なので,やめるのはつらいですが、ここは目くじら立ててけんかするところでもなく,言ってきた共演者に何を言っても無駄はわかっているので,私が折れることになります。これがいわゆる世間でやっていく処世術というものかもしれません。
方向性の違い
ところが、録音を聞いたピアニストが思ったよりいい出来だった、という感想を述べたので、かなりショックを受けました。
その評価の違いは、明らかに音楽の方向性の違いから来ていますが、こうも違うとは思っていませんでした。しかし、下手くそなアマチュアを相手にして、手を抜かないプロの演奏家をいろいろ見てきた私は、共演者について不満を持ってはいけないと思っています。
次の本番目指して、頑張ります。
寺田寅彦の調律師
普段から生徒に、丁寧さ、慎重さはとても大事な能力、学校にいる間に身に付けよう、と言っていますが、問題プリントにうっかり「violinsts」と打ってしまいました。すかさず、高校生、にやにやしながら「先生、アイが足りないよ。」「あ~、ごめーん。」いつもは私が言ってやるのに。
さて、寺田寅彦の調律師の話でバイオリンを弾く高校生と議論になりました。
寺田寅彦氏は、調律師はいわば自然の法則に従ってピアノを整える、このように心の中にあるピアノを調律する人こそ真の芸術家と呼べる、しかし、自分の価値観をよしとする宗教家や人格者と呼ばれる人々は人を間違って整えようとしてしまう、と述べているところがあり、それに対し、自分の音楽を演奏することこそが大事で、調律師のように自分を出さないことは、どうかな、と言うのです。
自我が確立する頃の高校生、思春期という時期には、自分にこだわるのは決して悪くありません。むしろ自然であるのです。しかし、一方では高校生を指導しているバイオリンの先生も気になります。まさか、自分で自由に解釈して演奏しなさいと指導してはいないとは思いますが。
一番大きな勘違いは、楽譜は単なる楽譜であって、そこには何の意味もない、と考えることです。そうするとそれに自分の価値を埋め込んで演奏することが芸術だということになります。これはまさに、寺田寅彦氏のいう、いわゆる人格者です。
楽譜から何かを感じること、それは人により異なる場合がありますが、それが個性であり、それが重要であるというのが、高校生の意見でしょう。そこから個性を出すことが重要であり、これを封じてしまうことはどうかな、というわけですが、曲から何も感じないで演奏するのは、もはや演奏とは言えないのです。高校生にはそれが新鮮で貴重なことと感じていますが、それはそれまで、先生が示す手本しかなかったのが、同じようなことを自分でも感じることができるようになったからだとも言えます。
しかし、大事なことはその個性を出すことではないのです。感じたものの本質は、どこにあるかというと、やはり曲の中にあります。人により曲の中に様々な価値をこのように見つけるのです。それで感じたものが異なり、また感じたものが多くなればどれに重きを置くかも人により異なりますが、いずれもそういう価値は曲の中にあるといっていいものです。しかし、感じたものがすべてではないし、自分が重きを置くものが本当にそれだけ重要なのかという点については、個人というものを排してどうやって解決すべきなのかということが、見えていません。
ある日本のかなり有名な指揮者がこう言いました。「これは3拍子だから踊りの音楽です。」この指揮者はどういう理由からか、そう思っているらしいのですが、そのために、踊りの音楽ではない3拍子の曲までも踊りのように感じてしまうのです。つまり、思考により感覚の方向を間違えた方向に伸ばします。そうすることで、本来の曲の価値にはないものを付け加えてしまうのです。つまり、これが解釈です。彼はそうやって感じたことを大事にし、それを表現するのです。これが現代の一部のクラシック演奏家を未だに支配している誤謬です。頭で考えているだけで曲そのものの現実を把握しようとしていないのです。
演奏家は音楽を聞き手に伝えるのが役目です。しかし、もっと詳しくいえば、音楽というより曲の持っている価値を伝えることです。曲にない別のものを付け加えて価値を変えて伝えるのがいけない、と言うつもりはありませんが、別のものを付け加える必要がない、だから、付け加えないのです。
科学者が発見した法則は、発見者その人を凌いでいます。それは普遍的な価値です。芸術作品も、時として芸術家を凌いでいます。作曲家がいじわるで俗っぽく、嫌われ者だとしても、その一つの作品には普遍的な多くの価値が発見できたりするのです。演奏家は、その作品が持つ価値を発見して人々に伝えるのが役目です。たとえば、モーツァルトの曲の価値をすべて把握することはできていません。それを完全にできる人もいないでしょう。その曲の持つ価値をすべて探究することが重要です。余計なものを付け加えたり、一部の価値のみを強調する演奏家はむしろ真の価値を見つけられないからこそ、そういう余計なものを付け加えているのだ、と思われても仕方ないでしょう。また、そういう演奏家が付け加えたものが、曲の価値を損ねることになる可能性も高いのです。
ですから、自分がその曲をどう感じるかは非常に大切でなことです。そして、それは個性だから重要なのではなく、真の価値を知るために重要なのです。この違いは非常に微妙で、その演奏家がどういうタイプの演奏家なのかを判断するのはなかなかむずかしいことです。ただでさえ、人は気まぐれであり、日毎に変化をします。真の演奏家であるためには、一時的に良いだけでは無意味で、常に芸術家たることを自覚し、誇りを持って演奏することが大事だと思います。
最後にまたよく聞く言葉を。
Eat to live, don't live to eat.
音楽家になるためには、お金をかけ、毎日努力しなければなりませんが、実際それで音楽家としてやっていける人は少ないです。果たして、音楽家を目指すことはいいことなのか。その答がここにあるように思いました。そうすると、音楽で収入があるかどうかは、音楽家であることとは関係ないように思います。
Do not perform to eat, eat to perform.
とも言えるのです。
ボランティア演奏
ここで、アマチュア演奏家の中には勘違いをする人間が出てくる。たまたま人前で演奏して、良かったなどという社交辞令で、これでいいんだと勘違いをするのである。全然良くはないのだが、自分の演奏のひどさに気付いていないアマチュアは本当に多い。自分が下手なことはわかっている、と多くのアマチュアは言う。それは当たり前でもある。だから下手なことがわかっているなら、人前で演奏するときはきちんと恥ずかしくないように練習して臨むべきだ。そこがどうしてわかっていないのだろうか。だからこそ、アマチュアは自分の下手さがわかっていないと断言できるのだ。本当にわかっていたら、どんなことがあっても、そのままで人前で演奏しようなどとは思わないはずだ。
しかし、世の中そうは言っても演奏できる場があれば、所かまわず演奏するアマチュアは多い。ほとんどはたいして練習をしない。場合によってはその日に集まったメンバーがちょこっと事前に練習して出る、なんていう、信じられない連中もいる。そういう連中によって、アマチュアだからあの程度だ、という評判が作られてしまうことなど全く関知しない。自分達の演奏の恥ずかしさを知ったら、本当に人前で演奏しようなどとは思わないだろう。
では、アマチュアは人前で演奏するなということか、と反論する人もいる。悲しいかな、やはり自分達のどこが下手かがわかっていないということをまたも露呈する。下手なのだからそれなりにもっと練習すればいいだけだ。なぜそんな簡単なことがわからないのかが、私にはわからない。アマチュアでいい演奏をする人もいる。そういう人々はきちんと練習をし、本番に備える。もちろん、アマチュアだからそれでも下手くそだ。しかし、きちんと練習して臨んだ演奏は、決して恥ずかしい演奏ではなく、聞き手にも喜びをもたらす。無責任なアマチュアがひどいのは、下手だからひどいのではない。
彼等は何も伝えようとしない。ただ、音符をなぞるだけだ。自分達は楽しくても、聞く方は楽しくない、あるいは共演者も苦痛である、などということは全く考えていない。はじめから聞き手に伝えようとするものがないのだ。つまりは初めから、それは演奏などと呼べるものではない。だから、ひどいのだ。演奏家が伝えるべきものは自分の腕前ではない。だから、伝えるべきものを伝えることができれば、下手な腕前であっても全然かまわないといえる。
その、演奏家が伝えるべきものは、曲そのものである。その曲がどういう曲か、それは真剣な練習を通してのみ、知ることができる。先生からあるいは指揮者から、それを言葉で教えてもらうこともあるだろう。しかし、だからといって誰でもそれをすぐに表現できる腕前は持っていないだろう。必ず練習が必要だ。そして、練習を通して言葉の意味では限界があるその本当意味もわかってくるし、また、自分自身でもいろいろ発見をすることになる。だからこそプロは練習をきちんとするし、なおさらアマチュアはしなければならない。
きれいに並んだ雑音
音楽も同様で目の前の譜面を一生懸命に音にするのと、そのイメージを頭に入れてそれを音にするのとでは全く違う響きがします。もし、音楽のイメージが頭の中で作られていなければ暗譜で弾いたとしてもそれは譜面を音にした場合となんら変わりません。
先日ある在京のプロオケのラフマニノフを聴いたとき、まさにそういう状態でした。全くラフマニノフの音楽というものが聞こえてこない、一生懸命指揮者は振っていて、奏者もそれなりに懸命に弾いているが、この曲はどういう曲かということが全く伝わってこない、ひどい演奏だと思いましたが、拍手喝采でした。もともと、このメインの前に演奏されたモーツァルトも最悪で、アマオケみたいによく弾けました、ご苦労さん、みたいな演奏で、音が死んでいるし、譜面にかじりついているし、なんでバカみたいに素っ頓狂な音を出すんだ、という感じでした。いい演奏のモーツァルトを聴きたい、つまり、耳が汚れた、という印象です。オケのレベルもそんなものですが、指揮者が悪すぎる、というのが最大の原因です。なぜなら、別の指揮者の時には全く違った響きをするからです。
音楽用語
大人から楽器を始める人は案外多いと思う。そういう人は音楽用語を、昔、音楽の授業で習った意味で使っていると思うが、結構間違っていることが多いのではないか。それがために逆にうまく弾けないことも多いように思う。「Allegroは快活にという意味です」と昔ある指揮者が学生の私達に言っていたのを思い出す。スラーはただなめらかに弾けばいいわけではないが、一息で弾くというのはなかなかいい説明かも知れない。しかし、この説明を書いた人は管楽器出身だろうと思う。
スタッカートは音を短く切って弾く、という説明があるが、その通り弾いたらスタッカートにはならないだろう。実際は音色も堅い感じになるから単に音の長さだけではない。歯切れ良さがほしい。
単に音を短くしてだけ弾いて、レガートとの対照性も何もない、これでは面白くも何ともないだろう。こういう風な練習をいくらしてもちっともうまくならないと思う。
音楽用語は要注意。その日本語を鵜呑みにすべからず、と思う。
