障害とプライド(3) | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

前記事に、Aさん、Bさんというお父さんについて書いたけど、おふたりとも尊敬できる人たちだった。
自分の信念を貫くという点、みごとだった。
なかなかできないことである。


自分だったら、どうするか?と考えたとき、どっちかというと、Aさんに共感する。

(Aさん=へりくだりすぎている、と言っておいて何だけれども…)
Bさんみたいな生き方は、それなりの器が必要だ。


「障害の受容」についてだけど

障害の実態を知らず(あまり体験がなく)、健常サイドでしか物事を考える機会がなかった人は、

「障害」=「大変なご苦労」=「受け入れることはたいへんだろう」と考えがちである。

じつは、それこそが偏見であり、個人レベルで、障害を受け入れることは、みんなあたりまえに、やっているものだ。

「運命はえらべないものだ」「日々、現実生活をするしかない」というところにいきつくので、とっくに障害の受容は成立している。


個人レベルでは障害受容できる。

「障害をかかえて生きる自分」に対しての「社会」からの支援をどうやって受けとっていくか、そこがみんなの悩みどころなんだ。


Aさんのように、「力およぶかぎり、息子を支援する。なるべく制度にあまえないように…」というやり方だと、内々で完結するので、まぁ、「社会との軋轢」の回数は減らせるかもしれない。


Bさんみたいに、

「障害があっても健常児に混じって生活することは当然」

「もともと世界はそのようにできている」

「健常児にとって、障害をもつ人の存在が特別でなく自然なことになるように、小さいときから交わりをもってほしい」

と言い切れる人、自分は、多くは知らない。

Bさんの考え方、まっとうだと頷けるところは、すごくあるけれども。


やっぱりさ、

世の中には裏と表がある。

人々の「本音」の一部は、ふだん裏でひっそり息をひそめていたくせに、ある日突然、すごい本流となってオモテ社会になだれこんでくるから、気をつけないと。


Bさんの娘さんの例でいうと、先生方に可愛がられ、クラスメイトにも好意をもって迎えられ…だが保護者の方々の中には「○○ちゃん(Bさんの娘)に手がかかるために、ほかの子の勉強が遅れたら、どうしてくれるんですか」的な発言を陰で言ってる人もいた(;^_^A


Bさんは全く動じない

(想定内だったみたい)

「他者のせいで、損をかぶらされたらメーワクなことだ、という意識は当然あるでしょうね」とさら~っと、おっしゃっていた。

「メーワクのもとになっている人間が、介助してもらうことに当然顔してるって思わせたらダメなんだよね」とも。


人間観察に余念がないかただった。

「人というもの」に関心が尽きない感じで…そういうところが障害と社会の受け入れのバランスをとるのに、役立ってるんだろうなーと思った。


Bさんの姿勢から、いろいろ学ばせていただき感謝している。

そして先月、

「裏にかくれていた本音が、障害者を直撃事件」に遭遇。(あ、Bさんのことじゃないですよ)

つづきは次回。