障害とプライド(2) | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

数年前、精神保健医療チームの一員だったとき

ケースワーカーさんと二人でAさんという男性の自宅を訪問した。

Aさんは、障害年金の受給を希望していたのだが、同居のお父さんが、申請に反対されていた。

私たちとしては、Aさんが年金を受給することが生活基盤の安定につながるのでは、とお父さんにお話ししてみた。

が、お父様は固辞。
Aさん本人も「父の意向に従います」と言い出し、私は何も出来ず、職場に戻った。

そして上司に叱られた。
「あなた、Aさんの支援者?知らないうちにお父さんの支援者にスライドしてるんじゃないか?」と。

いえ、私はAさんの支援者、のつもりだった(;^_^A

1年くらいたって、お父さんが逝去され、Aさんは申請し、年金を受給できるようになった。


↑こういう流れと結果だけを書くと、

「お父さんが、息子さんの障害を受容せず、そのために制度の活用が阻まれていたんだ」というふうに、受けとる人もいるかもしれない。

現に、私の上司は、そういう解釈をしていた。


でも、直接お父様と、会話した私としては、「障害の受容」の問題じゃなかったと思っている。

このお父さんとの出会いは、私にとって、障害とプライドについて深く考えさせられる機会だった。


Aさん本人も、お父さんも障害に関し受容している人たちだった。

…というか、

障害に関して当事者が「受容していない」という事態は、めったにないんじゃないか?


障害基礎年金の申請をしてみよう、と考える時点で、初診から1年半以上はぜったい経過しているはずなのだ。(障害認定日というのは、初診から1年半後なので)

それだけの時間、障害とともに生きてきた事実がある。

障害ゆえに日常の困難を感じて「障害が事実でなく、夢だったら…」と考えることくらいは、あるかもしれないが、現実生活をまわすこと即、受容だと思う。(否定してたら、生活がすすまないからね)


で、Aさんのお父さんであるが、

息子さんの年金を申請しないことによって、息子さんの父としての自分を、受容している様だった。


「生きがいなんです」という言葉をおっしゃっていた。

「息子より長生きできるとは思わないが、生きている間は親である証として、できるだけのことをする。社会制度にあまえずにすむなら、どうかそうさせてください」と。


このお父さんなりの筋の通し方があるんだろうなーという事を感じた。

一方で、「社会制度活用=あまえる」という発想があるために「あまえてはダメだ!」というプライドが、たちあがるのか?とも。

結局、亡くなるまで、その筋を通され、みごとではあった。


ただ、現在Aさんが年金を受給されるようになったことについて、天国から「あまえている」と言わないでくださいね、、、という思いが浮かんでくる。

あまえる、という言葉から、(なんとなく、だが)「障害者は、世の中に(あるいは健常者に)負担をかけていますね?すみません」という意味が感じとれる。そんなにも、へりくだらないといけないことかな?


つづいてBさんという、ぜんぜんちがうタイプのお父さんに出会った。

Bさんは、心身障害児(女児)のお父さんで、介助が必要な娘さんを、普通学級に就学させるべきか、それとも療育専門の学校を選択したほうがよいのか、検討されていた。

そして普通学級就学の道を選択。


教育を受けるのは「権利」ですよね?

このような場合、娘さん本人にとって、どちらがより過ごしやすい環境か?ということが決め手になると思う。お父さんは、「それは、もちろん」と言った後に…


「学校にとっても、娘の入学は良いことなんです」とキッパリ言った。

Bさんの考え方を以下に記すと、

「社会というものは、健常者と障害者、両方存在している。それが通常」

「学校はこどもが社会生活を学ぶ最初の場所。そこで健常児と障害児が隔てられていたら、健常児は障害児の存在を含めた生活というものが未体験になってしまう」

「娘に出会う事は、健常児のみなさんにとって良いことです!」

ということだった。


※Bさんの娘さんは、いまのところ順調に学校生活を過ごしています