小さな器が語る、大きな遊び | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

ここのところ、ゲーム依存の自分に関する記事で醜態を晒してきた…

白くまポーラは
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↑このように、とてもカワイイので執着を断つのはタイヘンだった。


ゲームの進行にしたがって、ポーラが自分のところに自然にやってくるのなら、うれしいが、課金で強引にひきよせるのは「身請け」になるので、やってはいけない事、とブログに書いた。


ゲーム課金くらいで、大袈裟なコトを…。でも、そのくらい自分にとって、ポーラは神聖な存在!


ただ、「身請け」という行為を、邪悪なことのように、言うのはヘンだと思っている。(いかにもそういうカンジで書いておいて何だが…)


「身請け」=けしからん!というイメージは、『お金の力で、人を意のままにしようとしている』と思うから?


でも、じっさい私が、「身請け」という言葉を知った小説では、「粋な遊びかた」「スケールの大きな遊び」「あそび方が、その人間の器をしめす」というようなことが書かれていた。

主人公の「スケールの大きな遊び」と「身請け」は、密接なつながりがあった。


以下は、その小説について。

器のちいさな私が、「とてつもなくスケールの大きい遊び」について、記事にさせて頂きます。


山崎豊子 「ぼんち」 新潮社

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この作品世界は、大正末期から昭和の激動期。大阪の船場商人文化を背景としている。

タイトルの「ぼんち」とは、良家の坊ちゃん(ぼんぼん)の中でも、とりわけスケールが大きい人のこと。


主人公・喜久治は、古い暖簾をもつ足袋問屋の若旦那。

「男に騙されても女に騙されてはあかん」という父の遺言を受け、放蕩三昧しても「帳尻をあわせる」ことを心がける。


財力と暖簾がいっさいを支配する船場。

喜久治は暖簾を継ぐ直系男子であるが…じっさいは祖母と母が君臨する女系家族であった。

(喜久治の父は丁稚あがりの婿養子旦那)


かつて大阪商人の最高峰ともいわれた船場の商人としての喜久治の仕事ぶりも、物語のなかに描かれてはいるのだが、大半は「女あそび」のお話である!!

コレが破天荒ビックリマーク

気に入った女性に貢いで、ちょこちょこ散財…とかいうレベルではない。

惚れた以上、かならず身請けし、一軒の家をあたえるのだが、そんな妾宅が5件ビックリマーク

その5人の女性のタイプはさまざま。(生きぬいていく逞しさを感じさせる人が多いが…)


芸者にとって、喜久治のように財力のある「旦那」にひきぬかれるのは名誉な事のようだ。

そして、喜久治のほうも、妾宅をもつことが、船場商家の若旦那としての『甲斐性』だと思っている。

※妾宅は、本家公認である!!

すごい、人生をかけてあそんでいる~叫び

現代のモバイルゲームなんかでちいさくあそんでいる自分は…喜久治のあそびっぷりに、こんな世界もあるのかと驚くばかり。


このスケールの大きい遊びを成立させる、古き良き時代の船場の特殊性について、以下のような記述がある。


『豊臣時代から築いた富を、4つの堀川で囲んで、その四角い地帯に住む商人は、大名のような家族制度と経済組織をもっているやないか・・・』


財力はたしかにすごい。また喜久治の家が女系家族である点も、彼を「女あそび」にかりたてる要因になっているような気がする。

喜久治の祖母、母ふたりの女帝ぶりはすさまじく、喜久治はふたりに頭があがらない。それゆえ、花街でみつけた女性に保護欲を発揮するかたちで、男の甲斐性をあげようとしているのかな…


作者の山崎豊子さんは、ジャーナリスト出身で、綿密な取材をされることで有名。

「社会派」とよばれた作家であるが、エンターテイメント性もすごい。面白くて一気に読めます!