他力が私をひきあげる | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

わたしの実母は、数年前から、腰痛のため生活動作に支障を感じるようになり、行動範囲がせまくなった時期がありました。


整形外科にずっと通院を続けています。交通事故の後遺症、加齢現象が重なり、かんたんに治せるものではないようでした。


「痛みにとらわれている状態ゆえに、苦しい」、「痛みと共存していけるようになりたい」と言っていましたが、慢性的な症状がある者が、痛みにとらわれない状態になるのは、なかなか難しいことですね


ところが、ある日、魔法のように実母は「腰痛」をわすれさったのです。

若いときから消化器に不調がおこりやすい人だったのですが、主治医にすすめられ腸を手術することになりました。

いまどきの外科手術は、開腹しないのが主流になりつつあって、患者の負担は昔にくらべて小さくなっています。


そうはいっても、手術はタイヘンなことで、この大きな治療をのりこえることに、母の注意は集中したようでした。

入院して、腰痛のことをピタリと口にしなくなったのですが、それは入院生活で安静を余儀なくされ、からだを動かさないからだろうと思っていました。

ところが、歩けるようになっても腰痛をわすれていて、スタスタと歩行している姿に、見舞いにきてくれた人たちは「治療対象の病気と腰痛は、きっと関係があったのね」と言いました。


でも、母の主治医は「関係ありません」とおっしゃいました。

人間の注意は、そのとき最もタイヘンだと本人が感じていることに集中するようになっています。

いったん注意が集中したら、それを「解除」するのはむずかしいです。

注意集中の弊害を知り、意志の力で注意をそらそうとしても、なかなか解除できません。

むしろ、いっそう「気になる」状態を強固にしてしまったり…人の注意とは、意志のコントロールのきく領域と直結しているわけではないのですね。


母の場合は、たまたま、「手術」という出来事が、「腰痛=母にとっての一大事」という意識をわすれさせたのでしょう。

手術のほうが「一大事」だったという事でしょうか…


痛みがあるから、意識する(注意が向く)。注意が向いているから痛みがわすれられない…という悪循環を断ち切ったのは、母自身の努力(自力)というより他力だったといえます。


母の例をまのあたりにして、森田療法で学んだ「人の苦痛と注意の関係」をあらためて思い出しました。

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先日、森田療法について、メッセージをかわしてくださった方がいました。

私は、ブログを通して、その人の生き方、尊敬しています。とても努力家で、素直な心で人に接する方です。

その方から、『森田療法は、今、苦しんでいる人にとって厳しすぎる言葉があると感じた』というご指摘がありました。


このブログ、みていただけるかどうか、わからないけど、自分の思いをここに、書かせてください。

「今、苦しんでいる人に対して、(森田は)あまりにも厳しい」という評価、私は、心療内科に勤務していたとき、通院中のかたからも、聞いたことがあります。

一人ひとり、苦痛の状況、背景、とらえ方、違いますので、森田の考え方があわない、と判断される場合も当然あると思います。


森田は「人が神経症の悩みの渦中にあるとき、その人自身の主観の中に閉じ込められている」という表現で、苦痛と注意固着の悪循環について指摘していることがあるのですが…これが、悩んでいる方の努力を否定しているように響くと、とてもつらい気持ちにさせてしまったのではないか、と思います。


実母の例を、上にかきましたが、他力によって偶然、苦痛が緩和する例もあれば、あくまで自力の努力を地道に重ねていく方も多くいらっしゃいます。

努力しているさなかに、人格批判を受けたように感じられたのなら、ほんとうに申し訳なく思います。


森田正馬氏は、ご自身がいくつかの神経症とその克服を体験されたことをもとにして療法をあみだされました。

悩みと苦痛の日々は、魂を磨く道のりであり、授かった性質のプラス面を輝かせるための必要な過程であったと位置付けておられます。


私自身が森田理論から、もっともつよく印象付けられたことは、人生の中の自助努力の大切さと、おなじくらいに、他力からひきあげられる存在であることの気づきです。

生かされていることの感謝と、自らがなすべき努力、両面を伝える森田理論に、人格批判の意図はございません。表現のしかたによって、お気持ちを傷つけてしまいました。ほんとうにごめんなさい。