先日、わたしは、お友達のAさんにメッセした。
(その内容の一部)↓
Bさん(共通の知人)がブログ更新を休んでるみたいで残念だね
読者はBさんのこと応援しているのに、「コメント頂くのも、今は負担」というような表現が記事にかかれていたので、私は何も言えない。
ブログ主さんのことが好きで、好意からコメントしても、受け入れてもらえない場合があるんだ…と考えさせられています。
Aさんは、忙しいのに、すぐに返信をくださった。
「そうだね、残念だけど、そっとしておいてあげようね」という返信かな?と思ったらちがっていた。
Aさんは、Bさんのことも、わたしのことも、ブログの表面だけでなく、その背後の状況を考え理解しようとしてくれる人だという事がメッセからつたわってきた。
Bさんについて、わたしは「ぶれない自分をもった強い人」というイメージがあった。
昔、アメーバの限定記事について「否定はしないけど、自分は意味を感じない。意見を受け入れてくれそうな人にだけ発信していく意味は何だろう?自分の意見を受け入れない人がいていいんだ。否定的な人、いやがらせをする人を排除しようとして、世界をせまくすることはないよ」とおっしゃったことがあった。
そんな強さをもったBさんが、今は、好意的なコメントさえ負担に感じる状況なんだと、悲しかった。
Aさんが返信に、書いてくれたのは、Bさんが現在、本来の強さを発揮できない状況にあるんじゃないか、という事。
Bさんは自分が本当に望んでいる状況をつくるために、努力の手段をていねいに検証する人。
結果を出すことによって、この方法は、自分にとってはよかった、とブログに書かれたりしていた。
Bさんがぶれない事には根拠があったのだ。
実践し、結果を出している、という根拠。
いま、Bさんは意欲を失ってはいないけど、改善しようとしていたことが停滞している(←Bさん流に言えば結果を出せていない)ので、努力手段についての自信がゆらぎやすいのでは…
Bさんの気持ちを、よく理解しているAさん。
ありがとう、私は「強いBさん」という先入観にとらわれていたので、そういうことが想像できませんでした。
森田療法の先生から教えられたことを、以下に書きたいと思う。
私たちは、人生の途上、何度となく「こんなはずじゃない!」という状況に遭遇する。
いきづまりを感じた時、大切なのは、自分自身の「心からの欲求」に焦点をあてる事。
いろいろ存在するちいさな欲求のほうでなくて、自分にとって、とくに大切なあきらめたくない大きな欲求。
この欲求にそって行動できているかということを検証する姿勢が大事。
なぜなら、「自然にわきおこる欲求」は、その人の叶えたい願いを実現する道しるべだから。
心から望んでいることを、「失うかもしれない」という不安はたとえようもなく大きい。
不安と欲求は表裏一体の関係にある。
つまり本当に望んでいる道を歩くということは、必ず不安がついてくる。
不安をあまり意識しないですんでいる人というのは、目的を果たすことに夢中になっているだけで不安がゼロというわけではない。
不安にたちすくんでしまった時は、自分の行動の仕分けをおこなう時期。
不安をまぎらわすための行動や、自分の欲求から離れた行動が、「自分の首をしめている」と思えるなら、やめていいんだ。
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Bさんと、わたしは全然親しくないので、ここを読んでもらえるとは、思いませんが、Bさんのあきらめない心の強さを尊敬していました。Aさんのおかげで、Bさんの今の気持ちに少しだけ近づけたような気がします。
わたしもブログはあってもなくてもよいものだと思います。今の自分によいほうに作用していないときは、休止するのがいい事なんでしょうね。ブログは手段ですものね。