ファミリーレストランで宗教勧誘される展開になった時、その後の自分の対応策を考える上で頭に浮かんだのは、知人からきいた「セールスマンが高額商品の購入契約書をファミリーレストランで書かせる場合」であった。
高額商品とは、化粧品セット、エステの回数券…なんかだったと思う。
ファミレスという、「いつでも自分の意志で外に出ることが可能な場所」でありながら、長時間説得されているうちに、この場を終わらせるためには契約するしかない、という心境におちいり、必要のない商品を買うハメになる人もいるそうだ。
そのような強引なセールスをする側は、まさにその心理を狙っているので、絶対にその話し合いのうちに相手に契約書をかかせるつもりでいる。いったん、家にかえってひとりで考える猶予をあたえない。
友人が連れてきていた教団幹部の顔をみながら、この人もそういう類ではないかと心の中で思った。
信仰は心の問題であり、「商品」などではない。
しかし…人の心を、「モノのようにあつかう」、「あつかうことができる」ように勘違いしている人間はどこの業界にも存在する。
会話もしないうちに、そういうふうに決めつけるのは、失礼かもしれないが…
こういう登場のしかた(宗教勧誘という目的をふせたまま、話しあいの場をもたせておいて自分は別席で待機)が平気でやれる、その1点だけでも、「心をモノのように動かせる」と思っている不遜な人だと、じゅうぶんにつたわってきた。
で、どのようなやり口で、私の心を動かすのだろうかね?
これほどマイナスなスタートを挽回するべく、自分の信仰を絶賛するのだろうか
俗にいう「アメとムチ」のアメを見せるのだろうか
話すだけ話させ、最後にこのテーブルをひっくりかえしてやる、心の中ではっきり決心しつつ、相手を観察。
わりとキレイな顔の女性だった。でも…おだやかなやさしい顔ではない。(ラストの私の言動により般若顔に変貌。こわかった)
さて、教団幹部の語った「わが信仰」。
結論からいうと、勧誘の言葉はアメだけではなかった。ムチも相当しこまれていた。
功徳と罰のレトリック。。。これに尽きる。
功徳(くどく)とは、朝晩勤行し信心することで得られる信者にとっての「よいこと」。
「福運がつく」「宿命転換ができる」などと表現されている。
「よいこと」と言ったって、物事には裏表があり、人には「受け取り方」がそれぞれあるから、自分の身におこった「よいこと」が功徳かどうかは何とでもいえるんじゃないの?・・・私は正直そう思うけどね。
幹部の話は、そのへん「底があさい」感じであった。
たとえばAさんがケガをしたとする。
ケガをするのは一般的に「悪いこと」になると思うが、Aさんが信心していた場合には「ケガぐらいで済んでよかった。もっと大きい災難をこのケガが防いでくれたのかも」と、ケガさえも功徳のほうにカウントするのだ(;^_^A
そんなの、「物事を悪くとらないようにする」という話であり、「この信仰が絶対的に正しい」という話にすりかえようとするなんてヘンだ!こういう底のあさい話で、人の心を動かせると本気で思っているのだろうか。
功徳とやらを信じようとしない私に、幹部は「信じないまま、やっていても功徳はえられるんですよ!」と言った。
「そうですか。でも自分はやりたくないです」
お断りすると、今度は「罰」のお話がはじまった…
(このつづきは、また次の機会にかきます)