ピグの部屋に「おぬしもワルよの~」まんじゅうを置いていただいていました。
さしいれてくださったのは、頬にハート型のアザがあるイケメンさん。
ありがとう、イケメンさん。
自分の中の「悪」を、そのままのかたちで認め、この前、記事にかけなかったことをかきます。
うつからの回復過程で「死の衝動」にかられても、それを回避することが大事、とかきました。
命あってこそ人生は続いていくのですから、死の誘惑はことわらなければいけませんが、『死ぬことはそれほど悪いことなのだろうか?悪いことだと決めつけることで、かえって死の衝動にとらわれるのでは?』という思いを持ち続けています。
保健師の仕事の中で出会った人の中で、自ら死を選び亡くなっていった方がいました。
不治の病ではなかったけれど、複数の病気をかかえて生活に疲れておられました。
うつ状態がとても重いとき寝たきりになり、そこから少しよくなってきたとき、死の衝動にかられやすいと、その人の主治医は言っていました。「今日も無事で過ごしているだろうか」と気になり電話すると、元気な声で本人がすぐに出てくれました。「あなたこそ、からだを大事にね」とこちらをいたわるような言葉まで言ってくださいました。
しかし…その会話から半日もすぎないうちに、その方は死への旅立ちを決行されました。
この社会には、自死を強くたしなめる考え方があります。
自然死とちがって成仏できませんよ、とはっきり口に出していった方もいました。
この言葉によって、私はさらに救いのない気持ちになりました。
その人の死を回避できなかった…という点で、すでにとりかえしのつかない事態でしたが、その上に、その方の魂が救われていないなどといわれると、途方にくれるしかありませんでした。
その気持ちをやわらげてくれたのは、その人のお母さんでした。
ご自分自身、深い悲しみの中にいながらも、亡くなった方の顔が安らかだったことをおしえてくれました。
そして「やっと重荷をおろせたんだと思います。ゆっくりやすませてあげたい」と言われました。
お母さんの受容によって、この方の心は救われ守られていると感じたのです。
このブログには、明治生まれの精神科医・森田正馬先生の考え方をおもに書いてきました。
森田先生はこういう場合、どのように言われるのか、ずっと知りたかったです。
憶測でかいていきます。
この方の教えは「あるがままに、なすべきをなせ」という言葉に集約されます。
「あるがままに」というのは、本人にとって生きていく上での妨げだと感じられるような苦痛に対して言っているのです。
パニック発作、耳鳴り、書痙のような手のふるえ、対人恐怖、さまざまな強迫観念…etc
これらをなんとか正していきたい、というのが人情ですが「とりのぞこう」「正そう」とするほど、症状や苦痛が増強していきます。気がかりな症状を、そのままにしておき、行動や態度のみを正しい方向へ向けましょうという教えです。
「死の衝動」についても、それが心のうちにとどまっているのなら、大胆に思い浮かべておいて、行動に結びつけなければそれでよい、とおっしゃるような気がするのです。
同じような考え方を著書に書いている人でTさんという方がいらっしゃいます。
Tさんは、うつからの回復に効果があるという点で認知療法に肯定的ですが、「どんなことがあっても絶対に自殺だけはするべきではない」という考え方に対しては異を唱えています。
「絶対に自殺はダメ」と極端に決めつけること自体が認知のゆがみ、と言い切ります。
さらに、もっとも後悔のない自死の手段とは?という研究までしていたので、自死肯定論者だと世間から思われて批判をあびたこともありました。
しかし、わたしはTさんを支持します。
イザとなったら死ぬことだってできる、それを有りにすることで、かえってプレッシャーが減るかもしれません。
生まれてくること自体は選べなかったけれど、生き続けるか否かの選択はわが手にあり。
死の衝動を否定しないで、自死手段まで検討したことにより、Tさんは生のエネルギーをつかんだようにみえるのです。
上にかいた森田の「あるがままに…」の教えは、心と行動がウラハラでよい、と言われているようで最初は私も違和感がありました。
でも…永遠にウラハラなのではなく、心がどうあれ行動をととのえているうちに、心はあとからついてくるのです。
最終的に心はわたしたちを裏切りません。
行動のあとを追う心、かわいいですね。しかし心はあまのじゃく。支配しようとすればするほど、思わぬ方向へ動いて困らせます。
森田正馬さんは、このような人の感情と行動について生涯をとおして研究し続けた人でした。