傷ついたからだ・愛のゆくえ | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

(前記事のつづきです)

頸髄損傷という重傷を負った人に出会ったのは21歳のときだった。けがをした方も21歳(男性)だった。

その当時、私は大学付属病院で臨床実習をしていたナース見習い。

集中治療室という場所でその患者さん(Aさん)と出会い、Aさんが生命の危機状態を脱して、一般病棟(整形外科)にうつるとき自分も一緒に、実習場所をうつした。


移動してすぐ、Aさんの病室から出てきた若い男の人が、こっちに近づいてきた。

見覚えのある人だった。その人はAさんの親友で、Aさんが受傷した日もそばにいて、救急車に同乗していた。

その人が、なにも言わないうちから、「患者さんの容体についてたずねようとしている」ということを、私は察知した。


受傷したとき、Aさんの頸の骨は折れていた。
骨折については治療によって、もとの状態に戻すことができる。

でも肝心なのは、骨に保護されるように内部を走っている神経で、これが損傷しているとからだに麻痺がのこってしまう。

「切れた神経をつなげないのですか」と私は医師にたずねた。

骨を正常な状態にもどして、神経のダメージが少ないことを祈るしかない、神経はとても細いので簡単につないだりできないんだという答えだった。


なんとか命をとりとめたAさん。回復してほしいが、重い後遺症がのこるかもしれないという医師の言葉に、そんなにおそろしいことがあるのかと思った。

Aさんの友人もそのことが心配でたまらないに違いない。

でも不安をとりのぞくような良い話をもっていない状態で、彼から話しかけられるのは厳しいことだった。その人は、私の腕をつかむようにして、病室からはなれた薄暗い廊下の方へ歩いていかれた。

話があるんだよ、と言いながら押し黙っていて、ものすごく息苦しかった。

たいへん不謹慎なことだが、若い異性の人から強引につれだされて、これがこの人が私を見初めてくれて、交際しよう、などと言い出すんだったらどんなにいいか、という妄想がちょっとうかんできた。

もちろんそんな事はなく「Aはこれからどうなるんですか」と必死の形相できかれた。

遠慮があって医師に話しかけられず、ナース見習いの私には言いやすかったのだろうと思う。

後遺症については時間が経過しないとわからないのです、としか答えられなかった。

その人は泣きだされてしまった。

「これから、いろんなことをあきらめないといけないのか。結婚もできない?」と言われ、言葉がでない。

(Aさんはこの時、大学生だったけれど、卒業したら結婚する約束の恋人がいた)


たいせつなことを心配している真剣さがつたわってくるだけに、いいかげんなことは言えない。

希望をもてるような言葉もなにひとつ思い浮かばず立ち尽くした。

どうやって、その気まずい場面を終了させたのか記憶がない。

相手もうなだれていて、自分もその顔は見れず、その人が床にこぼした涙の跡をじーっとみているしかなかった。


やがて実習場所が別の病棟になり、その人とは顔をあわせなくなった。

Aさん本人とは、受傷後、6年くらい経過したとき再会しお話しすることができた。車椅子に乗ったAさんは元気そうな笑顔だったけれど「頚損のからだで、たくさん長生きするのはむずかしいだろうね、20代だけど余生を生きているのかも」とおっしゃった。

でも、そのとき奥さんも一緒でAさんの車椅子を押されていた。

奥さまが、受傷したときの恋人と同じ人かどうかはわからなかったけど、あの日、病院の廊下でAさんのために涙したご友人も、きっと安心されているだろうと思った。


星野富弘さんの詩画集を手にするとき、いつもこのAさんのことを思い出す。

前記事に書いたように、星野さんは複数の著書の中でも、あまり奥さんのことをかいていらっしゃらない。

少し具体的にかいてあった本には以下のような内容で言及されていた。


星野さんが電動車イスを使って、近所を散歩していたところ、前方の道から、みおぼえのある女性が自転車に乗ってやってきた。奥さんだった。

星野さんが声をかけられるのを待っていたところ、奥さんはスピードをゆるめることもなく、そのまま風のように通り過ぎていった。おいてきぼりの星野さん…。

そして自宅で顔をあわせると、奥さんから、いつも一緒に寄り添っていると、自分のペースだけ考えて動きたいときもあるんです、と言われてしまう。


星野さんの人生・芸術が、この奥さんに支えられていることは間違いない。

私は、上記の記述により、かえって星野さん夫婦があたりまえの日常を寄り添って生きておられることを感じさせられた。