このタイトル、どう思います?
「怒る」と「叱る」・・・
ある人が言っています。
「怒る」とは、感情の爆発のこと・・・
「叱る」とは、「相手」を思いやってのこと・・・
「怒る」と「叱る」の基本的な違いは、そこに“愛情”があるかどうか・・・と言う風に話す人もいます。
さて、振り返ってみてください。
貴方は、どちらですか?
お子さんに対して・・・
自分自身に対して・・・
伴侶に対して・・・
部下に対して・・・
クレ-ムをつける相手に対して・・・ などなど・・・
今日、ある一組の母子を見ました。
母親は、とても怒っているのでしょう。
ベビ-カ-を押しながら、早歩き・・・
それを幼稚園生か、それより幼い少年が後ろから一生懸命、ついていきます。
母親は、後ろを振り返りません。
もちろん、ついてくるのは分かっているのでしょう。
それを見て、私の忘却の彼方に忘れられていた記憶の扉が、一枚・・・開きました。
幼いとき、私も同じように、母親の背中を追いかけました。
その時、母の背中にみたのは「拒絶」です。
置いて行かれることはありませんでしたが、その「拒絶」のお仕置きは、後々まで引いていきました。
大きくなって行くにつれ、その記憶はどこかにしまわれていきます。
でも、その記憶によって付けられた傷は、しっかり残っていて、気付かない内に行動を制限するブレ-キの役割をしていきます。
私の場合は、「いい子でいなければ・・・望まれたことをやらなきゃいけないんだ。」という一つの枠です。
「いい子」というのは、決してステキな言葉ではありません。
「いい子」でいることで、どれだけのストレスを受けましたか?
「いい子」でいることの、辛さ・・・苦しさ・・・
「望まれたことをやる」・・・自分の意志に反して・・・
自分でいながら、自分でない苦しさ・・・
「やりたい」と、アンテナにかかったのに、何故かいつの間に、諦めてしまっている・・・
もちろん、親としては、「叱らなければならない」事もあるでしょう。
「子を思って・・・」と言うかもしれません。
でも、そこに「八つ当たり」は、入っていませんか?
自分の親にされたことを、自分ではイヤだと思っていること・・・続けていませんか?
子どもでも、誰でも・・・
愛情を持って「叱られれば」、ちゃんと分かります。
なぜ、「叱っているのか」説明すれば、ちゃんと理解します。
”理解”というのは、同じ事をしない。と言うことです。
もちろん、何度も話す必要もあるかもしれません。
でも、「子どもだから・・・」といって、頭から「怒って」いては、いつまで経っても、彼らの心には、傷しか付けないのだと思います。
ベビ-シッタ-をしていたとき。
ある家庭で、両親に愛されていない・・・と、心から、思いこんでいる姉弟に会いました。
彼らは、とても攻撃的で、粗雑で、落ち着きがありませんでした。
それを見て、少しの時間、彼らと話しました。
なぜ、姉弟2人だけにしておかないのか・・・
なぜ、お金を払って、シッタ-を雇うのか・・・
なぜ、両親は、一生懸命夜遅くまで働いているのか・・・
彼らの不安を一つ一つ聴きながら、伝えていきました。
するとそれまで、攻撃的だった彼らが、べったりと抱きついてきたのです。
そう「なぜ」を、説明すると、彼らは分かるのです。
その説明は、決して「口先」でしないこと。
「口先」は、見抜かれます。
誠心誠意もって話すこと。
それは、コミュニケ-ションに不可欠な要素だと思います。
「怒る」・・・それは、絆を断ちきるもの・・・
「叱る」・・・それは、いつか感謝されること・・・
極端かもしれないけれど、貴方はどちらを選択しますか?