(前回記事)

源氏(1) 

源氏物語は日本初の"毒親物語
2023-11-15

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12828688753.html

 

 

だから「枕草子」より「源氏物語」のほうが世界中で人気になった…清少納言にはなく紫式部にある意外な能力


「上流貴族の出身なのに家庭教師」という境遇もプラスに
2023/11/04 PRESIDENT Online

https://president.jp/articles/-/75406
 

来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部はどんな人物だったのか。

 

古典エッセイストの大塚ひかりさんは「人の気持ちを読み取る共感能力が高い女性だった。上流貴族の出身でありながら、家庭教師という身分に落ちぶれた自身の経験が、影響しているのではないか」という――。(第1回)


大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)
※本稿は、大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

清少納言より権力に近かった紫式部

先の系図を見てほしい。道長や妻の源倫子、紫式部や夫の藤原宣孝の血筋の「近さ」が改めて痛感される。

こうした「近い」血縁内で、主従関係が出来上がっているのが当時の貴族社会の常とはいえ、紫式部は清少納言以上に権力に「近かった」ということをまずは頭に入れておきたい。

その前提を得ると、宮仕えに対する清少納言とのスタンスの違いも理解しやすい。清少納言は、

 


「宮仕えする女を浅はかで悪いことのように言ったり思ったりする男なんかはほんとに憎らしい」

(“宮仕へする人を、あはあはしうわるき事に言ひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ”)(『枕草子』「生ひさきなく、まめやかに」段)と主張したものだ。

一方、紫式部は、

「しみじみと交流していた人も、宮仕えに出た私をどんなに厚顔で心の浅い人間と軽蔑するだろうと想像すると、そう考えることすら恥ずかしくて連絡もできない」

(“あはれなりし人の語らひしあたりも、われをいかにおもなく心浅きものと思ひおとすらむと、おしはかるに、それさへいと恥づかしくて、えおとづれやらず”)(『紫式部日記』)
と、宮仕えに対して複雑な思いをにじませている。

貴婦人が親兄弟や夫以外の男に顔を見せなかった当時、男に顔を見られるということは、体をゆるすことを意味していた。それもあって、仕事柄、多くの人に顔を見られる宮仕えは、良家の子女がすべきではないという考え方があったのだ。

上から目線で人間を観察する
実際、女房は公達(きんだち)(註)の気軽な性の相手となりがちだ。これに関しても清少納言と紫式部はとらえ方が違っていて、公達が女房の局(つぼね)を訪ねる沓(くつ)音が内裏では一晩中、聞こえることに、清少納言が“をかし”と風情を感じているのに対し、紫式部は“心のうちのすさまじきかな”(心の中が荒涼とするよ)と嘆いている。

 

(註)公達(きんだち)

本来は諸王のことを指したが、後代には臣籍にある諸王の子弟や、摂家・清華家などの子弟・子女に対する呼称として用いられた語である。 公達家は清華家の異称である。

が、歴史物語の『栄花物語』を見ると、当時は大臣クラスの娘でも宮仕えに出ていた時代である(巻第八、巻第十一など)。紫式部の気持ちは態度にも表れていたのだろう。彼女はともすると、「あんた何様?」と見られていた。『紫式部集』には、

「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上なのに、ずいぶん上流ぶっているわねと、女房が言っていたのを聞いて」(“かばかりも思ひ屈くんじぬべき身を、「いといたうも上衆じやうずめくかな」と人の言ひけるを聞きて”)詠んだという詞書ことばがきのついた歌が載っている。

「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上」(“かばかりも思ひ屈じぬべき身”)の解釈については、「紫式部自身が、ふさぎ込んで当然の身の上と思っている」「他人が紫式部を、ふさぎ込んで当然の身の上と思っている」の二説あるが、いずれにしても、紫式部は「何様?」と人に思われていた。「上流ぶっている」「お高くとまっている」と。

どんなに高貴な人にも苦悩はある
清少納言と紫式部は、女主人に対する見方も対照的だ。

清少納言ははじめて定子のもとに出仕した時、緊張に打ち震えながらも定子の美しい手が袖の先からのぞくのを見て、

「このような方もこの世にはいらしたのだ」(“かかる人こそは、世におはしましけれ”)と、目が覚めるような気持ちで見つめずにはいられなかった(『枕草子』「宮にはじめてまゐりたるころ」段)。

 


菊池容斎「清少納言」菊池容斎「清少納言」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)


一方の紫式部は、皇子を生んで国母(こくも)と崇(あが)められる彰子(あきこ/しょうし)の姿を、

「このように“国の親”(国母)ともてはやされるような端麗なご様子にも見えず、少し苦しげに面せて、おやすみになっているお姿は、ふだんよりも弱々しく、若く可愛らしげである」

 

(“かく国の親ともてさわがれたまひ、うるはしき御けしきにも見えさせたまはず、すこしうちなやみ、おもやせて、おほとのごもれる御有様、つねよりもあえかに、若くうつくしげなり”)(『紫式部日記』)
と描写している。

清少納言にとって女主人は絶対的な存在であるのに対し、紫式部にとっては同じ人間としての苦しみを持つ存在だった。

これはあとで見るように、紫式部の類いまれな共感能力のなせるわざで、それが作家としての才能にもつながったわけだが、この姿勢が、どんなに高貴な人にも苦悩はあるという『源氏物語』の設定を生んだのである。

 

いずれにしても、厳しい身分社会だった当時、女主人に、ややもすると上から目線で人間としての苦しみを見たのは、紫式部に相応のプライドがあったからに他なるまい。

源氏物語に大きな影響を与えた親王
こうした前提で以て、再び紫式部の出自に目を向けると、彼女の父方祖母の姉妹の孫には具平(ともひら)親王がいる。

具平親王は当時、最も尊敬されていた文壇の中心人物だ。道長は、この親王の娘に長男・頼通(よりみち)を縁づけているのだが、その時、紫式部を、

「親王家に縁故のある人」(“そなたの心よせある人”)
と見なして相談していた。

紫式部の父・為時はかつて具平親王の家司(けいし)であったらしく、紫式部もこの宮に仕えたことがあったらしい(新編日本古典文学全集『紫式部日記』校注)。

 

紫式部はそれにつけても、
「心の中ではさまざまな思いに暮れることが多かった」(“心のうちは、思ひゐたることおほかり”)
と書き、彰子の皇子出産とその後の華やかな祝いの有様を綴っていた『紫式部日記』は、この記事を境に暗いトーンに転ずる。

実は、紫式部の父方いとこの伊祐(これすけ)の子の頼成(よりしげ)は、具平親王の落胤らくいんである。そう同時代の藤原行成の日記『権記(ごんき)』(寛弘八年正月条)に書かれている。

ちなみに具平親王は、『古今著聞集』によると、“大顔”と呼ばれる雑仕女(ぞうしめ、下級女官)を“最愛”して子をもうけ、大顔は月の明るい夜、親王に伴われて行った寺で“物”(物の怪)にとられて変死しており(巻第十三)、『源氏物語』の夕顔のモデルとされている。

紫式部と親密な間柄だった権力者
大顔のような下級女官がお手つきとなって継続的に愛されるのは珍しいだろうが、女房クラスの女が愛されることはありがちで、紫式部も道長の“召人(めしうど)”といわれる。

召人とは、主人と男女の関係(お手つき)になった女房(註)のことで、妻はもちろん、恋人とすら見なされていなかったものゝ、普通の女房よりは上の立場である。

 

(註)女房(にょうぼう)

平安貴族たちに仕えていた「女房(にょうぼう)」。『源氏物語』の中でも頻繁に登場するその名前は、貴族に仕える女官の役職のことです。彼女たちはいつ何時でも貴族のために働くキャリアウーマンでした。

「貴族に仕えて働く」と言うと、掃除や洗濯、食事の準備のような使用人としての仕事を想像されるかもしれません。
しかし実際には、貴族社会の中で働く女性にも数多くの役職がと階級があり、使用人として働くのは女房ではなく「水仕女(みずしめ)」と言われる女性たちの役目でした。

では、女房がどんな仕事をしていたのでしょう。女房とは、貴族に仕えて働く女性の中で最も身分の高い役職です。

平安時代においては、下流~中流貴族の娘が、より高い階級の貴族に女房として仕えていました。

仕事内容としては、主に着替えの手伝いや調度品の管理、主人が女性の場合は長い髪を梳かすなどの細やかな身支度の手伝いといった、主人の体や私物に直接触れて整えるようなものが多かったとされています。

そして、最大の役割は、男性貴族と女性貴族が直接顔を合わせることが禁じられていた貴族社会の中で、主人が異性に綴った手紙を代わりに届けるというものでした。ときには伝言を預かるなど、貴族たちの恋愛が成就するようアシストまでしていたのです。

「貴族に仕える」という表現をすると家政婦や執事のような仕事を想像してしまいがちですが、女房たちもまた貴族の身分であり、より高い身分にある主人と密接に関わりながら貴族社会を支えていました。

教養があり貴族社会を内側から見ていた女房たちは、和歌や文学作品を多く残していることから「女房文学」というジャンルも存在します。

紫式部や清少納言が代表的で、作家として有名な彼女たちは女房として働く傍ら創作活動をするという二足の草鞋(わらじ)を履(は)いていたのです。


https://enchado.jp/colmun/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E8%B2%B4%E6%97%8F%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%9F%EF%BD%A2%E5%A5%B3%E6%88%BF%EF%BD%A3/#:~:text=%E5%B9%B3%E5%AE%89%E8%B2%B4%E6%97%8F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AB%E4%BB%95%E3%81%88,%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%80%82

紫式部は夫と死別後、まだ幼い子を抱え、道長の娘・彰子(あきこ)の家庭教師として仕えるが、南北朝時代にできた系図集『尊卑分脈』には“御堂関白道長妾云々”とあり、道長の召人(めしうど)でもあったことはほぼ通説となっている。

しかも紫式部と道長の6代前の先祖は同じ左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)であり、道長の正妻の源倫子( りんし/みちこ)の母・藤原穆子(ぼくし/あつこ)は、紫式部の父・為時の母方いとこに当たる。


作者不明『紫式部日記絵巻』の藤原道長作者不明『紫式部日記絵巻』の藤原道長(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

元上流貴族ゆえのプライドの高さ
紫式部のプロフィールをまとめると、

1紫式部の祖父や父、夫は受領階級(中流貴族)に属すが、自身も夫も先祖は上流に属し、血縁には高貴な人々が少なからずいた。


2曾祖父は娘を天皇に入内させ、一族からは皇子も生まれていた。


3紫式部は文壇の中心人物と昵懇(じっこん)で、最高権力者である藤原道長のお手つきだった。


4夫と死別した紫式部は先祖を一にする藤原道長やその娘に仕えていた。


ここから見えてくる紫式部像は、

「先祖は上流だったのに、祖父の代には落ちぶれて、自身も夫を亡くし、家庭教師という特別待遇ながらも、人に仕える立場に成り下がっていた」である。

そんな紫式部に“上衆(じゃうず)めく(註)”振る舞いがあったとしても不思議はあるまい。

 

(註)上衆めく(じゃうずめく)
いかにも貴人らしく見える。 貴人らしく振る舞う。  高貴な人に、それほど見劣りしないように、貴人らしく振る舞っている。 「めく」は接尾語。


土佐光起「紫式部図(部分)」土佐光起「紫式部図(部分)」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

水鳥にさえ自分を重ねる高い共感性
紫式部は“上衆めく”一面のある一方で、苦悩を抱える最底辺の人々に、自分を重ねてもいる。

これまた、「似つかわしくないもの。下衆(げす)の家に雪が降っているの。また、月が射し込んでいるのも残念だ」(“にげなきもの下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし”)(『枕草子』「にげなきもの」段)
と、下衆に対して冷たい視線を送って見せていた清少納言とは対照的だ。

紫式部は、
「めでたいこと面白いことを見たり聞いたりするにつけても」「憂鬱で心外で、嘆かわしいことが増えていくのがとても苦しい」と『紫式部日記』に記し、優雅に泳ぐ水鳥もその身になってみれば苦しいのだろう、自分も同じだ……と嘆く。

 

彰子(あきこ/しょうし)の実家に一条天皇が行幸するという、女主人にとっての栄誉の日にさえ、天皇の御輿を担ぐ駕輿丁(かよちょう)が“いと苦しげに”突っ伏している姿に、「私だってあの駕輿丁(かよちょう)とどこが違うというのか」(“なにのことごとなる”)
と言い切る。

「高貴な人との交流も、自分の身分に限度があるのだから、まったく心が安らぐことはないのだよ」(“高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いとやすげなしかし”)と。

紫式部が、高貴な女主人に同じ人間としての苦しみを見るだけでなく、賤しい駕輿丁(かよちょう)にすら自分を重ねるのは、先にも触れたように、希有な共感能力ゆえだろう。

見てきたように、彼女は、人ならぬ水鳥にさえ我が身を重ねていた。この「なりきり能力」があらゆる立場・身分の人物をもリアルに描く『源氏物語』を生んだわけだが……。

 

こうした感想が出てくるのは、それだけ自分が対等でない、人間扱いされていないという実感があったからだろう。プライドが高いからこそ、それに見合わぬ低い現状とのギャップが苦しいのである。

自身にあったいくつものif
このような土壌の上に生まれたのが『源氏物語』である。一部は宮仕え前から書いていたとされ、その評判から道長にスカウトされたと言われているが、いずれにしても、時代設定とされる醍醐天皇の御代は、紫式部の先祖が最も輝いていた時節に重なる。

曾祖父・兼輔(かねすけ)の娘・桑子(そうし)が生んだ章明(のりあきら)親王がもしも政治的に成功していたら……

もしも彼が出世していたら……

彼の娘が天皇家に入内して生まれた皇子が東宮にでもなったら……

 

あるいはもし、紫式部自身が道長の娘を生んで、その娘が高貴な正妻に引き取られ、天皇家に入内したら……

といった仮定をベースに、過去の人物だけでなく、皇后定子(さだこ/ていし)や敦康親王(あつやすしんのう)等々、紫式部と同時代に生きていた人々をもモデルにしながら、いくつものifを心に浮かべ、紡いでいったのが『源氏物語』ではないか。

作者と作品を結びつけて考えることについては異論もあろう。『源氏物語』の登場人物や設定に典拠を求める中世以来の研究には批判もある。しかし『源氏物語』については、作者と作品を結びつけて初めて見えてくるものがあると私は感じる。

『源氏物語』は、紫式部の先祖にまつわる「ifの物語」と見ることもできる、と。

なぜ光源氏の母は最低ランクの階級だったのか
その第一歩として彼女は、主人公である源氏の母を、先祖筋の桑子と同じく「更衣」(こうい)(註)という天皇妃の最低ランクの階級に設定した。

 

(註)更衣
平安時代、女御 (にょうご) に次ぐ後宮の女官。天皇の衣替えをつかさどる役であったが、のち、寝所に奉仕するようになった。「女御—あまたさぶらひ給ひける中に」〈桐壺〉


さして重い家柄ではないにもかかわらず、ミカドの寵愛を一身に受ける女。

それゆえ人々の嫉妬を一身に浴びる女。
女はこれからどうなるのか。

世代を重ね、移り変わるにつれ、女の子孫はどうなっていくのか。長い大河ドラマの始まりである。

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大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)

 

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