先日の今は亡きパカパカ友K氏の話をしましたが、これで思い出したのがK氏の住居の最寄り駅は滋賀湖西線小野駅であること。ここが何故に小野であるかというと、小野一族の拠点であり、遣隋使小野妹子の出生地であり、小野神社が建立しているのです。

 

以下、本文

 

鑑真(がんじん)の日本執着の目的
日本の古代~江戸期
2015/07/26 著
日教組捏造自虐史からの脱却

『日本の歴史 本当は何がすごいのか』  

(単行本) 著者: 田中 英道の紹介です。

 

 この本で書かれてあることは、戦後から今も続く日教組による自虐史観を植え付けられ、その洗脳から脱していない人にとっては反発するかもしれません。



然し、平安時代中期の『源氏物語』は、世界に誇るべき宮廷文学・長編小説であることはご理解できますね。然も、作者は女性。尚、文献初出は1008年(寛弘五年)。

 

※平安時代末である12世紀末の宮廷を含む高貴なる層の女性たちは、恐らくこの小説を読みたいため、識字率はほぼ100%だったでしょう。

 

それから700年後の18世紀の識字率はロンドンが20%程度、パリが10%未満、江戸が70%以上。
https://ameblo.jp/campanera/entry-10054758697.html


 11世紀の英仏の女性の識字率は恐らく1%以下だっでしょう。当時の貴族社会の女性は、単なる飾り物でした。

 

 余談を言うと、欧米はレディーファーストを誇るが、元はと言うと、ご主人様の為にドアなどを先に開けるのが麗しき召使である妻の役目でした。成程、先(ファースト)に出入りするのが女性ですが、女性を尊重した行動ではないんです。

 

この本のレビューより一部抜粋

著者田中氏は、もともとは、フランス、イタリアに留学し、それらの国の美学美術史を研究し、西洋文明のすぐれた部分に触れることができたと思い、有頂天になっていたところ、日本にも住んだこともあるイタリアの有名な人類学者フォスコ・マライーニに、次のように言われたという。
 
「日本には大変なショックを受けました。日本は私を目覚めさせたのです。西洋人のキリスト教や古典学に依拠しないで、立派な文明を持っている国が、そこにあったからです。どちらを向いても道徳的一貫性、正義感、精神的な成熟さを示す人々に出会うことができました。

そこで西洋のキリスト教が最高の宗教ではなく、相対的、歴史的な存在なのだと知らされました。どの宗教、どの哲学も、人間の存在、時間、死、悪を説明する試みの一つにすぎないのだと。

日本人は自分たちのすぐれた考え方を、西洋人に向かって書物で広く知らせているわけではないけれど、日本に行ってみると、それを実践しているのです。

そうした日本という国の存在自体が、西洋に挑戦状を突きつけているのです。日本という国は、その世界地図に占める小さな位置よりも、はるかに大きな存在なのです。」

(参考)


随筆日本 ― イタリア人の見た昭和の日本 

単行本 – 2009/12 フォスコ マライーニ  (著)

 

内容(「BOOK」データベースより)
日本の懐に飛び込み、この国を深く知り、そしてこの国を愛したフォスコ・マライーニ。彼は大戦下の日本を、敗戦直後の日本を、復興しつつある日本を、そして高度成長後の日本を、自らの目でつぶさに見つめた。

 

西洋人としての視点から、また同時に日本人の視点にもよりそいながら、この国の社会・歴史・文化・風俗を複眼的に鋭くとらえる。

以下は、『親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)』さんの、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』の一部についての説明です。

遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」 2015/07/06

http://oyakochoco.blog.fc2.com/blog-entry-1003.html
(宮内庁 正倉院)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/

正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。

聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。

知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。

それでは、この書物を見ていきましょう!

日本の歴史 本当は何がすごいのか  

(単行本) 著者: 田中 英道

知っていますか?日本の“いいところ”。伝統と文化の魅力がわかる14話。「和歌」「わび・さび」「もののあわれ」「老舗」などユニークな伝統と文化を生んだ日本の魅力を、美術史の国際的権威が、通史のかたちでわかりやすく説き明かす好著。

日本の歴史は、世界史の視点で比べてみるとよくわかる。
四大文明と縄文文明、ギリシア神話と日本神話、コーランと十七条憲法、フランス革命と明治維新、欧米型資本主義と日本型資本主義など、ユニークな対比によって描かれた日本の“いいところ”。

知っていますか?
◇縄文文明は世界の四大文明に匹敵する!
◇ギリシア神話と日本の神話はこんなに違う!
◇都市の誕生は戦争がはじまったことを意味している!
◇なぜ仁徳天皇陵は始皇帝陵やピラミッドよりも大きいのか?
◇ムハンマドのコーランと聖徳太子の十七条憲法はどう違う?
◇中国の美術は日本の美術とどう違う?
◇負け知らずのモンゴルを破ったのは日本の組織力だった!
◇コロンブスは黄金の国・ジパングをめざしていた!
◇美術には「歴史の証拠」が残されている!
◇ヨーロッパ型資本主義と日本型資本主義はこんなに違う!
◇フランス革命、アメリカ独立と明治維新はこんなに違う!
◇日本の歴史の特長はその「一貫性」にある!

 

『 奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、高床式校倉(あぜくら)造りの壮大な倉庫で、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。

 その御物には唐や西城、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。そこから正倉院を「シルクロードの東の終点」といったりします。

 この呼び名には間違いはありません。確かに多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。

日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります。特に戦後、この見方が浸透しました。

 

※戦後GHQの日本人劣等戦略で歴史教科書は検閲され、日本が独自の発展を遂げ、シナ(中国)や朝鮮が学びに来たなど書いたらパスせず。それが今でも続いている。

 その代表例は、遣隋使、遣唐使です。


推古天皇十五(607)年に【小野妹子】が遣隋使として派遣されました。

(参考)小野神社






 

小野神社の境内にある小野篁(おののたかむら)神社の本殿は、小野道風神社本殿と同じ重要文化財。

 


https://www.japan47go.travel/ja/detail/ea09206a-0e48-4ba9-b579-961fe4c220a9

 

小野篁(おののたかむら)(802-852)とは、平安時代の歌人であり政治家です。少年時代は乗馬に専念して学問をを顧(かえり)みませんでしたが、後に漢詩文で名を挙げ、31歳で『令義解(りょうのぎげ)』の撰修に参画しました。政治家としては、遣唐副使・参議などを務め、野宰相(のさいしょう)と呼ばれたといいます。

 

古事記によれば、小野一族とは、大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。

〒520-0525 滋賀県大津市小野 JR湖西線和邇駅から南約1km徒歩10分

ご祭神 

○天足彦国押人命 あまたらしひこくにおしひとのみこと
○米餅搗大使主命 しとぎつきおおかみぬしのみこと


日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けている。旧社格は郷社。

古代氏族である小野氏の居住区域の中心で、小野妹子の出生地と考えられている神社。南へ行くと、飛地境内に小野道風神社、和邇川を越えて北には小野天皇社がある。

http://www.genbu.net/data/oumi/ono_title.htm

尚、小野妹子の墓は、大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある。


遣唐使の最初の派遣は舒明(じょめい)天皇二(630)年です。以後、途中で船が難破したりしているので数え方にもよるのですが、いずれにしろ、日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したという文脈で語られています。

しかし、【事実はまったく違う】のです。

 たとえば小野妹子の遣隋使のときです。こちらから行っただけでなく、随からも裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。

唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。

 たとえば、天智天皇八年(669)には2千余人が来ています。天智天皇十年(671)にも2千人来日、という具合です。

ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、三十数回も来ています。

いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです。

【遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かった】

では彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。
ほかでもありません。【日本の文化を摂取するため】に来たのです。

経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。八世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。


 鑑真(がんじん)が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名てすが、鑑真がなぜこれほど日本に執着したのか。

聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。

鑑真だけではありません。インド人、ヴェトナム人、ソグド人の僧も日本の仏教を学びに来ています。』

いかがでしょうか?

世界中の人々が、私たちの日本に学びに来ていたんですね♥
これが、本当にあった、歴史なんですね^^

日本って、素晴らしいですね♥

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2020-07-13 

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2021-03-25 

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古代史(3) 

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古代史(4) 

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2022-01-08 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12719939370.html

 

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2022-01-10 

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日本書紀:天地創造は兄妹の近親相姦で
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イザナギ(兄)が「自分には成り成りて成り余れるところ(凸)がある」

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