心の履歴(99-2)  
近江五個荘商人市田の真髄
2023-08-17 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12816512418.html

 

市田を近江五個荘商人と称したが、実は、近江五個荘商人と言えば市田以外にも皆さんご存じの企業が幾つかある。

代表的なのが伊藤忠、丸紅であり、ワコールである。

 

今回は、五個荘商人の概略を述べた山村隆一氏の記事があったので以下に掲載する。

 

尚、五個荘商人=近江商人の精神を表した映画「てんびんの詩」( 第一部 [VHS])については次回に述べる。

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19年03月13日
近江湖東・五個荘商人シリーズのまとめ

http://blog.livedoor.jp/mbcsouken/archives/cat_55900.html                                           山村 隆一 著

 私の生まれ故郷は滋賀県神崎郡五個荘町金堂(現東近江市五個荘金堂町)である。琵琶湖東の五個荘地区は、かつて近江商人を輩出した地域の一つである。2013年6月より20回にわたって五個荘地区周辺出身の近江商人について紹介してきたが、今回はそのまとめである。

 



1.五個荘地区出身の商人達
 五個荘金堂町出身の外村与左衛門(外与)は、元禄13年(1700)に尾張名古屋を拠点に麻布(まふ)の持ち下り商「布屋」を創業した。その後は京都、大阪、江戸に店舗を構え豪商となった。

 

現在は外与株式会社(本社京都)となり、現代的なアパレル・着物のファッション商社である。外与一門には外村宇兵衛家、外村繁家(二代外村繁は作家となった)、外村一郎兵衛家(外市)がある。

 同じく五個荘金堂出身の中井勝次郎は明治38年(1905)、次男西村久次郎、三男富三郎と共に朝鮮半島に渡り大邱に呉服小間物商「三中井商店」を開業した。やがて朝鮮半島、中国大陸の主要都市に三中井百貨店を出店し「朝鮮・大陸の百貨店王」といわれたが、国内に店舗を持たなかったため、終戦と同時に連合軍司令部に接収され消滅した。

 五個荘川並町出身の塚本定右衛門は、文化9年(1812)、甲府で小間物問屋「紅屋」を開業した。長男の定次(二代定右衛門)は次男の正之とともに一門の人心をまとめ家業を繁栄させた。妹の塚本さとは、70歳を過ぎて学校創設に奔走し、大正8年(1919)に「淡海女子実務学校」を創立した。

塚本商店は、現在の東証一部上場の総合繊維商社「株式会社ツカモトコーポレーション」(本社東京)である。

 塚本一門の三代目塚本喜左衛門は慶応3年(1867)染呉服卸を開業し、明治28年(1895)に京染問屋を開店した。「鷹の羽印」の黒紋付が宮内庁御用達の栄誉を授かった。

現在は塚喜商事株会社(本社京都市)等のツカキグループを経営している。

 ワコールの創業者である塚本幸一の父は五個荘川並出身であった。滋賀県立八幡商業学校を卒業し、戦時中はインパール作戦に従軍したが奇跡的に生き延びて京都へ戻った。

戦後昭和21年(1946)和光商事を設立し、ブラジャーやガードル等の洋装下着の販売を始めた。その後、縫製工場を統合して女性下着の製造販売で業績を上げた。

昭和39年(1964)に株式会社ワコール(本社京都市)に社名変更し、京都・大阪・東京証券市場に上場、国内市場における地位を築いた。

昭和45年(1970)の大阪万国博覧会に出展以降、韓国、タイ、台湾、米国そして本場フランスに進出して世界企業としての地位を築いた。

 五個荘宮庄町出身の藤井彦四郎は明治40年(1907)に藤井彦四郎商店を創業して糸商を営み、鳳凰印の『絹子町糸』等を販売した。

東京の西田嘉平と共にフランスで発明された人工絹糸(人絹)の普及に尽力したため日本の化学繊維(レーヨン)のパイオニアと言われている。

その後、毛糸の製造販売に注力し、「スキー毛糸」のブランドで大成功を収めた。

 五個荘山本町出身の小泉武助は享保元年(1716)、麻布持ち下り「近江屋新助商店」を創業した。現在は小泉株式会社(本社大阪備後町)となり、上海、蘇州やインドにも拠点をもつフアッション衣料の総合商社となっている。

関連会社には小泉産業と小泉成器があり、小泉産業は電気照明機器と学習机の有名企業である。

 五個荘北町屋町出身の市田弥一郎は、明治7年(1874)に東京日本橋横山町に京呉服店を開業した。

「意匠の市田」といわれ伝統的に意匠(デザイン)を強みとした。現在の市田株式会社は中核事業のきもの分野で活躍している企業である。

 五個荘竜田町出身の小杉五郎左衛門は、北海道に進出し明治16年(1883)に函館に呉服織物の卸店を創業した。

東京へ本社を移し昭和18年(1943)小杉産業株式会社へ改組した。戦後はニット製品の輸出入と百貨店・専門店向けのアパレル事業で成功した。昭和55年(1980)にはゴールデンベアブランドを持ち業界大手となった。

 伊藤忠兵衛は天保12年(1842)、犬神郡豊郷町に生まれた。

 

麻布の持ち下りから明治5年(1872年)大阪本町に呉服反物卸商「紅忠」を開店。京呉服卸の京都店、大阪安土町に錦糸の卸商・糸店を開設して伊藤忠商事並びに丸紅の礎を築いた。

忠兵衛の二男伊藤精一は明治19年(1886)に生まれ、17歳で家督を相続して二代忠兵衛となった。

イギリスに留学し多くの生きた知識を学び、経営の近代化を進めた。ニューヨーク支店を開設し、綿布のほかに鉄や中古紡績機械の輸出、鉄鋼、重化学製品、自動車、木材などの分野へ広げ、繊維だけでなく非繊維製品を扱う総合商社の礎を築いた。

 古川鉄治郎は明治11年(1878)初代伊藤忠兵衛と同じく五個荘の北東の豊郷町に生まれ、11歳のとき大阪の伯父の初代伊藤忠兵衛に預けられ薫陶(くんとう)(註)を受け、伊藤本店に入店した。

 

(註)薫陶(くんとう)

優れた人格で人を感化して教え育てること

その後は伊藤忠兵衛本部の総支配人、本店支配人をつとめ、大正10年(1921)株式会社丸紅商店の発足に尽力した。

 

以降は丸紅商店の専務取締役として会社を発展させ、総合商社丸紅の礎を築いた。生涯の大事業として故郷の豊郷町へ小学校を寄贈し、地元人材の育成に貢献した。

 愛知郡愛荘町に天保15年(1844)に生まれた西澤眞蔵は、麻布や綿布を大阪や九州地方へ持ち下り、やがて大阪に店舗を構え、長崎にも支店を開設して豪商となった。



さらに銀行の取締役をつとめ、製紙業、石油販売業、貿易商社等を経営し巨万の富を築いた。

 

後年は愛知県三河地方の枝下用水の掘削事業に全財産を投じ、遂に明治27年(1894)に竣工させ後の世に美田を残した。

2.商人発祥の理由  
 湖東の五個荘地区とその周辺の地域からは多くの商人が生まれた。なぜこの地域から多くの商人が輩出されたのか、その理由を考えてみた。

 第1に、湖東地区は、麻の地場産業が盛んだったことがあげられる。

 

室町期より原料麻の栽培、製糸、染色、麻布の機織り等の手工業が行われていた。江戸の末期になって、地方の庶民にも貨幣経済が浸透したことにより、この地で生産された麻布を各地へ持ち下って商売することが可能になった。持ち下り商で成功した者が各地で店舗を開設し、やがて豪商となっていったのである。

 第2に、この地域は交通の要衝であった。

http://miko-tv.jp/?page_id=14851

この地には中山道が通っており、京・大阪と東海、北陸、信州、関東を結ぶ交通の要衝であった。

 

この地で生産された麻布を中山道、北国街道、東海道を通って地方へ持ち下ることができたのである。また交通の要衝であったということは、同時に京・大阪、西国の情報と関東、東国の情報が集まりやすく、商売に有利に働いたと想像できる。

 第3に、地域の経済事情が影響したことが考えられる。近江は農業生産高の高い国とされるが、この地区は東の繖山(きぬがさやま)と西の愛知川に挟まれた土地で、耕地の面積が狭く、また必ずしも肥沃ではなかった。農家は、麻布の機織り等を兼業して生計を立てていた。

農家の二男三男は、江戸期には持ち下りに出かけ、明治以降は高等小学校を卒業すると京・大阪等の地元出身者が経営する店へ奉公に出た。彼らの中から店の経営者や幹部になり成功した者も少なくはない。

 第4に、企業家精神に富んでいたことがあげられる。先人が進取の気性と才覚を持ち、果敢に峠を越えて他国へ持ち下り、財を稼いで帰郷した。

 

これに触発されて多くの人々が後に続き、持ち下り商いに出たことであろう。成功して豪商となった後も、後継者の代々にわたって進取の気性は受け継がれていったものと思われる。

 第5は、商売の哲学にある。

伊藤忠兵衛は熱心な浄土真宗の門徒であった。

「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買いに何れも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」と信じて店の経営と店員の養成に全精神を集中したという。

売り手によし、買い手によし、そして世間よしの「三方よし」の精神で商売に勤しむことは、神仏の教えに適うものと信じることよって、様々な困難を克服して経営に専念できたものと考える。

 

                 以上

 

尚、著者は、「西武王国」創業者の堤 康次郎氏のことは書いていない。恐らく、商人ではないからであろう。

 

堤 康次郎氏は五個荘地区の北東隣の滋賀県愛荘町に生まれ、4歳で父が病死。母とも生き別れたが、10代で商売に目覚め、東京に移り、裸一貫でぶつかるビジネススタイルで財を築き、1938年に衆議院議員に初当選。衆院議長などを務めた。

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心の履歴(99-2) 余談③;
てんびんの詩(うた)
2023-08-21

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12817135338.html

 

 

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