(前回記事)
心の履歴(86-1) 
若宮通りのたこ焼屋
2023-07-10 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12810808025.html
 

 

(今回記事)

2013/11/06 著

私が20歳の時(1965年)に出会った増井の婆ちゃんについて、改めて書いておきます。

婆ちゃんは、1905年前後生まれでしょうか。
戦前、増井の婆ちゃん一家は、公務員のご主人の転勤で満州に渡ります。

http://www.geibundo.com/mizuhonokuni/mi20110117.html

処が、ご主人は大陸の気候や風土に合わなく、肺を病み寝込みます。

そこで婆ちゃんは化粧品店を現地で開店したのです。
商売は順調で2店舗にし、十数人の中国人や韓国人を女店員として雇い、かなり大きな商いをしていたようです。

戦争が始まり、現地では猛烈なインフレとなります。
真面目に貯金をした男と、酒ばかり飲んで空き瓶を縁の下に貯め込んだ男の違いは、超インフレと物資不足でもあり、貯金していた男の金は紙くずのようになり米を買えない。他方、酒飲みの男は、縁の下の空き瓶を高値で売り、食う米には困らなかった・・・

そういう時代ですから、目を離したら、店の商品は確実に店員にネコババされる。
中国人や朝鮮人の女店員には油断も隙もあったものではなかったそうです。

息子さんは、東京高等商業学校(今の一橋大学)を卒業後、満州で銀行に勤務。満州中央銀行だったと思います。

そこで息子さんは、婆ちゃんの反対を押し切り日本人の女子行員と職場結婚。
婆ちゃんの反対の理由は嫁さんの出自が悪いからです。

やがて終戦。
貴金属を身に付け、病弱な夫と共に帰国の途につきますが、貴金属は全部没収され、身一つで舞鶴港に上陸。

京都に帰ってきて、銭湯丁字湯の南隣の二階建ての小さな借家に住み、ここの一階で一杯屋を始めたのです。

(住所)京都市下京区若宮通り正面下る鍵屋町
丁字湯(2004.04.30廃業)の南隣


http://www.inorg.net/sentou/shimo/cyoji.htm

そこに引き揚げてきた息子夫婦が転がり込んできたのですから、嫁姑の戦いです。ましてや狭い二階での隣同士の部屋ですから。

一杯屋の営業時間終了後のここでの小上がりでは、花札が始まります。メンバーは飲み客や近所の住民です。婆ちゃんは大陸で男供としっかりバクチをしてきたから強い。

中には五条楽園(京都の遊郭)で女郎として働いた女性もいたのです。元女郎は、暇なときは女郎同士で、或いは客と花札で賭けをしていたので結構強いのだそうです。

半端な酔客などは手玉にされたようですが、それでも通ってくる。これがバクチにはまった性(さが)です。

息子さんは、その一杯飲み屋から、大阪本社の建設会社に通います。やがて何年後かに大阪へ引越します。

後、婆ちゃんは体力の衰えを感じ、一杯飲み屋からたこ焼き屋に商売替えをします。

その頃の息子さんは、その建設会社(東証一部)の取締役になっていました。


息子さんは婆ちゃんに一緒に住もうと何度かたこ焼き屋に来ましたが、頑なに断りました。当然といえば当然です。

それから婆ちゃんが山科に引越し、通ってたこ焼き屋を続行したのは昭和46年(1971年)頃でしょうか。商売からリタイアしたのが昭和49年(1974年)頃です。

婆ちゃんは、度々昔の大陸時代のことを話してくれました。
その話の内容は、多分、大筋として戦前から満州で商売をしてきた同じ世代のお婆さんと同じかもしれません。

 

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心の履歴(86-3) 

競艇選手になれなかった男
2023-07-11 0

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12811475039.html
 

 

韓国(50) 

朝鮮人の特徴
2023-07-12

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12810964694.html

 

心の履歴:20代編 目次
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