(前回記事)
心の履歴(80)
若い女子のお酒にはご用心
2023-07-06
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12645632310.html
(今回記事)
2013/07/25 著
ここで住み込みで働き始めた昭和40年(1965)春にバックします。
東京に住む中学の時の同級生ミチ子さんへ手紙を出しました。会いたい旨の内容で。
実は、彼女が中学二年の時、転校していってから私との文通が始まりまったのです。
ところが、やがては私の反抗期が始まり、更に高校1年の二学期から恋に悩み始めると私の手紙の内容は一変、私の苦しい胸の内を無関係な彼女に打ち明けたのです。
無論、彼女にとっては迷惑な話です。
彼女からの返信は、赤のペンで書かれていたのです。
当然私は「赤い文字は絶交したい人に出す手紙」と習っていたのにそれを無視し、高校を卒業するまで一方的に手紙を出し続けたのです。
このような狂った心情が京都での1年間で沈静化した今こそ、ミチ子さんに直接会ってお詫びしたいと思いました。
そこで彼女に会いたい旨手紙を書くと、日時指定の返信がきて、東京に出かけました。
当時(1965年)、新幹線が東京⇔京都間を3時間で走っていましたが、新幹線代金は片道2400円弱なのですが、僅かなバイト代での往復では大きな出費です。
在来の急行で行きました。
急行料金は400円(600円?)でしたから。
当時、何本か昼に走っている在来線の特急・急行の中で一番早いのが京都朝発で7時間少々でした。
(参考)東京⇔大阪「超特急ひかり」
超特料1300+運賃1180=2480円
(参考)1964年当時の物価:白米(10 kg)975円,そば50円,山手線初乗10円,京都市電15円、大工の手間賃1800円,教員の初任給16300円.
(参考)1966年(昭和41年)国家公務員(甲種)初任給23300円。
待ち合わせ場所は、渋谷駅の忠犬ハチ公前広場。
https://bestcarweb.jp/feature/column/515888
7年ぶりの再会でした。
ミチ子さんは清楚できれいになっていました。
彼女は私を道元坂下の不二家渋谷店へ連れて行きました。
東京都渋谷区宇田川町26-3 サンルイビル2F
(注)画像右側の階段を上るとペコちゃんがお出迎え。
二回目の待ち合わせ時間は夕闇時。
無論、待ち合わせ場所は、渋谷駅忠犬ハチ公前広場。
当時の渋谷は、広場は暗く、今みたいな活気はありませんでした。但し、この広場では沢山の老若男女がデートの待ち合わせをしている。そんな暗闇の中、果たして見つかるかどうか不安でした。
不思議なものです。暗く、然も沢山の人で混雑していて発見は困難と思うも、何故か彼女だけが白く輝いていて直ぐに発見できたのです。
この時は、彼女、私を居酒屋に連れて行きました。
彼女は言うのです。
身体障碍者の弟と同居しているから、このような夜には家を空けれないと。
それでは、何故に彼女は私との待ち合わせ時間を夕刻にしたのかが不思議でした。
三回目は、予め、新宿通りの伊勢丹に行き、1Fの女性店員のアドバイスで蓋がカメオの銀製(スターリングシルバー)コンパクトを買い、彼女に贈りました。
その後、何度か彼女から事務所に電話が掛かって来たのですが、私、不在が多く、それに彼女が要望する次の会う日時は都合が悪かったりの連続でした。
彼女は自宅で朝と夜、365日、恐らく弟さんのことで手を離せない事情があり、それに一種の遠距離交際ですから、このまゝ継続するのは困難でした。
彼女と会ったのは、この渋谷で会った三度だけでした。
彼女と渋谷の街を歩くのに、肩に手を回しましたが、手を握ったことはなかったです。
その後、東京駅で待ち合わせをしたのですが、彼女の母親が待っていました。
母親は、娘が来れない故に代行であること、それに、私が彼女が見たいと言うので以前に渡した高校の卒業アルバムを持参し、私に返すと言うのです。
私はこれで彼女との関係は終わったことを悟りました。
「アルバムは私には不必要です。そちらで処分してくれませんか」
それが最後となりました。
妻にこの話をしたら、カメオを欲しがりました。
私 『欲しかったら自分で買いなさい』
以後、私、妻にカメオを買ったのが、結婚三十年後です。
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心の履歴(81-2)
不二家のショートケーキ
!2023-07-07
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12810931821.html
心の履歴:20代編 目次
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12806473286.html
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