「春夜桃李園に宴するの序」李白
夫れ天地は萬物の逆旅(げきりょ)にして
光陰は百代(はくたい)の過客(かかく)なり
而して浮生は夢の若し
☆ ☆ ☆
東京裁判の開始は1946年4月29日の昭和天皇の誕生日。
処刑日が、1948年12月23日の現上皇明仁(平成)の誕生日。
意識的に天皇誕生日に行われたのです。
それは何故か
結論から言うと、「昭和天皇は、大東亜戦争(太平洋戦争)の首謀者の一人である」との米国トルーマン大統領の暗示なのです。
☆ ☆ ☆
昭和23年12月23日、巣鴨プリズン刑場にて絞首刑となり、久保山火葬場で霞となられたA級戦犯7名の方々に対して改めて哀悼の意を表します。
戦勝国にとって、大東亜共栄構想に基づく大日本帝国陸軍は憎むべき存在でした。
何故なら、大日本帝国陸軍は、「当初のルーズベルト大統領と昭和天皇の描いたシナリオ」と違って、それまで米国・英国・フランス・オランダ等が植民地とし、搾取していた東南アジア諸国に侵攻したのみならず、植民地の独立のために戦ったからです。
故に、東京裁判で絞首刑になったのはA級戦犯七名ですが、内、六名は植民地の独立の基礎を作った憎き帝国陸軍であり、残る一名は戦争に反対し続けた政治家でした。
他方、米国ルーズベルト大統領と通じて帝国海軍を殲滅させた米国のスパイ・帝国海軍総督:山本五十六を代表とする帝国海軍のA級戦犯絞首刑者は一人もいませんでした。
以下は、東京裁判で断頭台の露と消えた七名の方々です。
記
板垣征四郎
昭和期の陸軍軍人。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。
東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:59 死因:死刑
木村兵太郎
東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:60 死因:死刑
土肥原賢二
謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。
東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:65 死因:死刑
東條英樹
東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:65 死因:死刑
武藤章
東京裁判で捕虜虐待の罪で死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:53 死因:死刑
松井石根
東京裁判で南京大虐殺の責任を問われて死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:70 死因:死刑
広田弘毅
第32代内閣総理大臣。
一貫して戦争反対を叫び続けた。
東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
命日:1948年 12月23日 享年:70 死因:死刑
☆ ☆ ☆
《非軍人の広田弘毅が絞首刑にされた本当の理由》
結論から言う。
東京裁判は、大東亜戦争のシナリオを描いた共産主義者ルーズベルト大統領の後任である同じく共産主義者である米国のトルーマン大統領と、同じく大東亜戦争を推進した昭和天皇の意向が強く反映された。
拠って、そもそも戦争に反対していた広田弘毅は、絞首刑となった。つまり、通説とは真逆である。
以下、その裏付け
昭和天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。
広田は名家出身でないのはもとより、親類・縁者にもこれといった人がなかった。
1936年(昭和11年)3月5日、第32代 内閣総理大臣
在任期間1936年3月9日 - 1937年2月2日
尚、英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者吉田茂は駐英大使。吉田茂もスパイであった。
第一次近衛内閣が成立すると、広田は近衛の要請で外務大臣 在任期間 1937年6月4日 - 1938年5月26日
1938年(昭和13年)広田は外相を辞任
第2次近衛内閣
成立年月日: 1940年(昭和15年)7月22日
終了年月日: 1941年(昭和16年)7月18日
近衛が松岡洋右を外相としようとすると、広田は「松岡では危ない。東郷を起用するがよい」と反対した。
しかし近衛は松岡を外相とし、日独伊三国条約(日独伊三国軍事同盟)を締結した。広田は三国条約が英米を敵にすることとして反対している。(註)
(註)ルーズベルト大統領は、ドイツとの対戦である第二次世界大戦に参戦したいが、戦争反対で大統領に当選。然も米国民並びに米議会は反戦ムード。これを一掃するために日本の松岡に日独伊三国条約(日独伊三国軍事同盟)を締結させ、日本との戦争、イコール、第二次世界大戦(ドイツとの戦争)参戦を正当化した。
大東亜戦争(太平洋戦争)開始時1941年(昭和16年)11月29日に開かれた重臣会議では、東条英機が「戦争に訴えざるを得ざる理由」を述べた。
『木戸幸一日記』では会議で広田は「危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや」「仮令(たとい)打ち合いたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉えて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思う」と発言したとされる。
※『木戸幸一日記』では、 「昭和天皇は、開戦前から開戦日時と、ソ連の参戦を知っており、そして日本は敗戦し、その5年後に独立すると言っていた」と書かれている。
昭和天皇の言った通り、開戦、そして敗戦。終戦から5年後、サンフランシスコ条約により日本は独立。これこそが昭和天皇とルーズベルト大統領は戦前から密通していたことを意味す。
後に昭和天皇は広田の発言を「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と評している。
1943年(昭和18年)中頃の広田を、広田と面会した学生が「軍部の横暴に憤られ、それに抗しきれぬ東条内閣の無策を非難され、戦争は絶対勝てぬから早く終息させねばならぬとおっしゃり、日夜その方策に奔走されているようでした」と回想している。
尚、東京裁判での広田については、11人の裁判官中3人(インド、オランダ、フランス)が無罪、2人(オーストラリア、ソ連)が禁錮刑を主張し、残る6人が絞首刑を主張。
オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。
首席検事のジョセフ・キーナンですら「なんという馬鹿げた判決か。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか」とのコメントを残している。
余談だが、後輩外交官の杉原千畝は、長男に弘樹(読みはひろき)と命名するほど広田を尊敬していた。(ウィキペディア)
以上が、非軍人の広田弘毅を絞首刑判決とした東京裁判に、昭和天皇の意向が強く反映されていた証である。
以下の記事も、間接的にそれを裏付ける。
「皇室(6) GHQが定めた象徴天皇とは」
2020-06-14
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12604271052.html
木戸幸一の日記から見えることは、昭和天皇は開戦前から米国と通じ、日本を敗戦へと導いた張本人である。
皇室(8) 機密文書:昭和天皇は自己保身
2020-06-26
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12607022950.html
マッカーサー元帥の代理人ウィリアム・ジョセフ・シーボルドの機密文書。昭和天皇は、日本を敗戦に導いた自分の命を守るために、米軍の長期日本駐留を要望した。
大東亜戦争(太平洋戦争)目次:戦犯は昭和天皇
2022-08-09
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12757465577.html
☆ ☆ ☆
「今こそ改めて見直さなければならないこと」
2011/12/22 拙稿より、一部抜粋。
☆ ☆ ☆
(関連記事)
大東亜(2) インド独立の為に戦った日本軍
2020-07-03
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12608035317.html
☆ ☆ ☆
(画像)昭和天皇
https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87/
(画像)ウィキペディア
板垣征四郎
土肥原 賢二
東条英機
武藤章
松井石根
広田 弘毅
木村兵太郎
m