「残業と言うのは、仕事の出来ない人間がするものだ。」

本当にそうなのであろうか。確かにその考え方は間違っていない。

しかし、物理的にマンパワーが足りずに、残業せざるを得ない状況下に置かれる事だって多々あるのだ。


時計の針が1日の終わりを告げようとしていた。

水無瀬は月初の忙しさに、時間も忘れて働いていた。


目の前の柱に、ひときわ大きい掛け時計がある。

白い時計版に黒い3本の針。デザイン性はおろか、何の工夫もないこの時計。

いつもなら5分おきに、時間が経たないと、罪のないこの時計を睨み付けているのだが。


さすがにこの時間だ。人もまばらにしか残っていない。

事務所は昼間の半分ほどの明かるさになっている。

この会社は、一人一人の蛍光灯に「ヒモ」が付けられており、帰るときには自分で消すといった習慣があった。

その事がさらに、水無瀬の気持ちを暗くさせていた。


水無瀬の対岸で端末を叩く音がする。

「パコパコ、パコパコ、パショ・・。」

ENTERを叩く音すら元気がない。


その一角は彼と、その上司二人しか残っていない。

あたりは暗く、それと対照的にパソコンの液晶の明かりに照らし出された二人が、疲れた顔を覗かせていた。


「ん・・?高野か。まだ残ってるのか?あいつ。」

水無瀬は、最近働きすぎの同期を少し不憫に思っていた。


彼は最初から老後のことを考えて、この会社に入ってきているらしい。

きっちりサラリーマンをして、きっちり国民年金保険払って、きっちり年金貰うのだそうだ。

「確かにマットウだ。」

関心はすれども、水無瀬にはその考えが、いまいち理解出来なかった。

そして、その事に焦りすら感じない自分に、少し嫌気がさしていた。

芥川賞、直木賞。

権威のある2つの賞であるが、この年は、デビュー間もない若い2人が選ばれた。

読みやすさも助けとなって、彼女達の書籍は書店から文字通り飛ぶように売れた。

「生れる前から作家だったのか。」

とある評論家に言わせしめた、二人の鮮烈な受賞劇であった。


ビンゴゲームで貰った受賞作が、大事そうに本棚に収まっている。

男の部屋は以外にさっぱりしており、無駄なものはなく、かといって空虚感を感じることのない部屋であった。

酒を飲みすぎたのか、水がうまい。深酒の後水を飲むと、体の毒素が空気中に分解していくような、そんな錯覚にとらわれる。


新入社員歓迎会。

部署ごとに行い、会社全体では行わない。

水無瀬は男と同じ部署ではなかったが、「席が近い新入生」というくくりで歓迎会を同日にされた。


散々悪乗りをした。「ノリ」でタバスコを一気飲みしようとして、先輩に止められた今日。

学生時代、ロクでもない安酒を呷っていたあの頃と大して変わらないな。

苦笑。しかし悪くない。


水無瀬は男の胸板が同じリズムで上下しているのを認めた。

サッカーを現役でやっているらしく、体は筋肉の均衡がとれ、メタボと呼ばれる種族とは対岸にいるような、そんな男である。

島生まれの島育ちとあって、性格は明朗快活。目に見えない「芯」というものが見えそうな、そんな奴だな、というのが水無瀬の男に対する第一印象であった。

「多竹寝たのか?」

「いや・・・寝ようか」

蜘蛛の糸のように天井からぶら下がる「ヒモ」を下に引っ張ると、頼りない明かりが2人を照らし出した。

そしてもう1回。部屋は当然のごとく闇につつまれた。


今日は悪くなかった。

多竹は悪乗りが「効く」。まだ社会人らしくない。学生が抜けきれていない。

だから楽しかった。


社会人になりきれない、そしてなれそうもない水無瀬は、強くそう思って深い眠りに落ちていった。

「一社会人としての自覚を~~」

某有名銀行頭取の挨拶が延々と続いている。

誰も耳を傾けていないことを知ってか知らずか、不機嫌そうなその顔と額に浮かんだ汗が小気味悪い。

日曜日だと言うのに社員は全員参加。

当たり前と言えば当たり前だが・・。


世間ズレせず、大学生→社会人とレールを走った。

超就職氷河期と呼ばれた時代。ろくすっぽ真面目に就職活動もせず原付で日本中を回っていた。

周りの人間も、厳しいご時世とあってなかなか内定を取れないでいた。

下らない話、皆がそうなので安心していた。そして、遊びほうけていた。


長旅から帰ってきて、就活でも、と生半可な気持ちで受けたのがこの会社。

就職する気なんざ毛頭なかった。社会経験として面接を。心の底から腐っていた。


しかし、すばらしい面接官だった。この日のことは一生忘れないのだろう、と今でも真剣に思ったりする。

すばらしい人との出会いは、人生を変えるというが、あながちウソではないのかもしれない。

社会人になってもいいか、という気持ちになったのはそのときが初めてだった。


パラパラという拍手の音で、それ、が終わったことに気づいた。

「続きまして~~」


ホワイトボードに書かれた進行表を見て、うんざりする。

外は雨模様。占いの類は信じたことがない水無瀬だったが、この時ばかりはこの先に不安を覚えた。


ようやく式が終わり、司会者から順番に出て行けとのアナウンスがある。

「・・・ふぅ」

気疲れなのか、これから始まるビンゴゲームへの気遅れなのか。

水無瀬はゆっくりと腰を上げた。