日月神示を繰り返し読む 2024年06月08日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

日月神示 月光の巻③

あなたはいつも深刻な顔をして考え込んでいますが、考え方は幾通りもあるのです、考えは迷いであると申してあるのは、そなたのような場合です、そなたは苦に向い苦に勝ったつもりで、苦を楽しんでいますが、苦は曲ることなのです、苦をつくり出してはならないのです、苦を楽しむより楽を楽しむ心が高いと知らせてあるでしょう、苦しむと曲り、楽しむと伸びるのです、未来に燃えることが現在に生きることなのです、そなたは現在に生きる努力が足りないのです、夢ばかり追いかけていては泡沫(うたかた)です、そなたは先祖に対する考え方が間違っているのです、先祖は自分なのです、地下にあるそなたの根が先祖なのです、根のない草木はすぐに枯れるのが道理です、先祖は家を継いだ兄が祀っているから、分家した自分は先祖は祀らなくてもよいと申していますが、よく考えて下さい、根から芽が出て幹となり枝が栄えているのと同様です、枝には根はいらないと申すのと同じような間違いなのです、分家しても先祖を祀らねばならないのです、先祖を疎かにしないでくださいと気を付けてあるでしょう、そなたはまだ方便をつかっているのですが、方便の世は終わっているのです、方便の教えとは横の教え、いろはの教え平面の教えのことです、仏教もキリスト教も回教もみな方便なのです、教えはすべて方便です、教えではどうにもならないぎりぎりの世となっているのです、理(みち)でなくてはならないのです、変わらない太道でなくてはならないのです、方便の世は終わって「ほうべんの世」となり、その「ほうべんの世」もやがて終るのです、理(みち)とは三界を貫く道のことです、字宙に満ち満つ理のあり方です、法則です、秩序です、神の息吹きです、弥栄です、喜びです、分かりましたか、この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくありますが、それは大難を小難にして、まためぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられているのです、借りたものは返さなければならない道理です、損もよい、病気もよいのです、その道理もわきまえずに理屈を申しているのですが、そんな人民の機嫌とりをする暇はなくなったので、早く神心になってください、そなたは祈りが足りないのです、祈りと申すのは心で祈り願うことではないのです、実行しなければなりません、地上人は物としての行動をしなければならないのです、口と心と行と三つ揃わなければと申してあること忘れたのですか、誠に祈ってください、誠とは〇(マ)123456789(コ)10(ト)のことです、ただ心で祈るばかりでは、自分で自分をだますこととなるのです、自分を偽ることは神を偽ることになるのです、誠で祈れば何事もスラリスラリと叶う結構な世なのです、考えていては何も成就しないのです、神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄えすればよいのです、人間だけの現実界だけで処理しようとするのが今までの考えです、今までの考えでは人間の迷いです、迷いを払って真実に生きてください、御霊(みたま)鎮めです、加実(かみ)鎮めです、そなたは信仰のありかたを知らないのです、長い目で永遠の立場からの幸いが歓喜がお陰であるのです、局部的一時的には嫌なことも起って来るのです、天地を信じ自分を知り人を理解する所にこそ誠の弥栄えがあるのです、ダマす者にはだまされてやってください、一先づダマされて、ダマされないように導いてください、そなたはそんな場合に我を出すからしくじるのです、ダマされてやろうとするからカスが残るのです、誠にダマされる修業が大切なのです、八のつく日に気つけてください、八とはひらくことです、ものごとはひらく時が大切です、第一歩の前に0歩があるのです、0歩が大切です、心してください、そなたは行き詰って苦しんでいるのですが、それは間違った道を歩んで来たからです、行き詰りは有りがたいのです、省みる時を与えられたのです、ミタマを磨きさえすれば何ごともハッキリと映って、楽に行ける道がしっかりとつくってあるのです、その人その人に応じて如何ようにでも展け行くのです、犬猫でさえ楽々と栄えているではないですか、洗濯次第でどんな神徳でも与えるのです、世界中を泥の海にしなければならないところまで、それより他に道のない所まで押し迫って来たのですが、尚一厘の手立てはあるのです、大神様にお詫び申してすっかり心を改めて下さい、神々様も人民様も心得え違いが多いのです、泥の海となる直前にグレンとひっくり返し、びっくりの道あるのです、そなたの用意が足りないのです、日々の人間の御用が神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのが誠の道であり、弥栄えの道であり、大歓喜であるのです、いつでも神かかれるようにいつでも神かかっているように、神かかっていても、自分にも他人にも分からぬようになってください、鍬(すき)をとる百性が自分を忘れ、大地を忘れ、鍬を忘れている境地が誠の御霊鎮めであり、神かかりであるのです、そこらでやっている行も、それに到る一つの道ではありますが、それのみではならないのです、気をつけ合って良い方向に進んでください、そなたが歩むのです、道は自分で歩まねばならないのです、他人におんぶされたり、他人が歩かせてくれるのではないのです、そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならないのです、人を助ければその人は神が助けるのです、この道理がなぜに分からないのですか、人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すものです、神にも道は曲げられないのです、何も難しいことを申しているのではないのです、自分の内の自分を洗濯して明らかに磨けば良いのです、内にあるものを浄化すれば、外から近づくものが変わって来る道理です、内の自分を洗濯せずに、汚いものが近づくとか、世の中が暗いとか不平を申しているのですが、そこにそなたの間違いがあるのです、木でも草でも中から大きくなって行くのです、三千年に一度の時がめぐり来ているのです、為せば成る時が来ているのです、為さねば後悔するのです、時が過ぎて種を蒔いても、くたびれもうけ、そなたは世の中が悪いとか人が良くないとか申しているのですが、すべては大神の肚の中にいて、一応大神が許しなされているからこそ存在し、生命しているのです、悪く映るのは心の鏡が雲っているからです、悪い世の中とか悪い人とか申すことは、神を悪く申し、神界が悪いと申すのと同じことです、新しき世界には新しいてんし(天詞)てんかをこしらえなければならないのです、このことを間違えてはなりません、珍らしき御型(方)が出て来てびっくりです、びっくりしなければヒックリとはならないのです、神は今まで化けに化けていたのですが、もう化けてはいれないのです、人民ももう化けてはいれないのです、九分九厘までは化けて我慢していたのですが、化けの世、方便の世、方便の教えは終わったのです、教えでは世は正されないのです、教えの集いは潰れてしまうのです、無理してはなりません、そなたの無理押しは良いことを悪く曲げるのです、世界を一つにするのですから、王は秘答理(ヒトリ)です、動きは二つとなるのですが、二つでないと動かないのです、キはキの動き、ミはミの動き、動いて和すのです、和すから弥栄えるのです、和せば一つなのです、キミとなるのです、そなたは自分と他人との境界を造っていますが、境界を造ってはなりません、境界をつくらずに、自然になる自他の別を生み出さねばならないのです、世界一家のやり方を間違えているのです、それぞれのコト(言)のハ(葉)はあっても、ミコト(実言)は一つと申して知らせてあるでしょう、大難は小難にすることが出来るのですが、無くすることは出来ないのです、不足は不足を生むのです、そなたは口を慎んでください、そなたは一度神を捨ててください、神にしがみついているから、小さい囚われたゆとりのない神を、そなたがつくり上げているのです、信ずれば信ずる程危ないのです、大空に向って大きく呼吸し、今までの神を捨てて心の洗濯をしてください、神を信じつつ迷信に落ちていると申してあることよく心得えてください、そなたはつまらんことにいつも心を残すからつまらないことが出て来るのです、心を残すということは、霊界とのつながりがあることです、つまらない霊界にいつ迄くっついているのですか、何ごとも清めてください、清めるとは和すことです、同じもの同士では和ではないのです、違ったものが和すことによって新しきものを生むのです、奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのです、それが誠の和であり清めです、善は悪と、陰は陽と和すことです、和すには同じあり方で、例えば五と五との立場で和すのですが、位においては陽が中心であり陰が外でなければならないのです、天が主であり地が従でなければならないのです、男が上で女が下です、これが和の正しきあり方です、逆さまではならないのです、これを公平なのです、口先ばかりで良いことを申すと悪くなるのです、心と行が伴わなければなりません、この簡単な道理が行なわれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからです、そなたの心の大半を幽界的なもので占めているからです、己自身の戦がまだまだ終わっていないのです、この戦は難しいですが正しく和して早く弥栄え結構です、そなたの持つ悪いクセを治してください、そのクセを治すことが御神業です、自分で世界を建て直すような大きこと申していますが、そなたのクセを治すことが最も大切な御用なのです、これに気づかなければ落第です、恐れてはなりません、恐れは恐れを生むのです、喜べ喜べ、喜べば喜びを生むのです、喜びは神です、神様御自身も刻々弥栄えしているのです、故にこそ生長されるのです、人間も同様でなくてはならないのです、昨日の自分であってはならないのです、今の自分です、中今の自分に生きなければなりません、自分にどんな力があったとしても我を出してはならないのです、我を出すと力が無くなるのです、我を大きな我に昇華させてください、大我に融け入らなければならないのです、大我に融け入ったとしても、小我が無くなるのではないのです、人も物も拝んでください、拝むと自分の喜びとなり拝まれたものも喜びとなるのです、嬉し嬉しとはそのことです、これほど分かりやすく申しても得心出来ないならば、得心の行くまで思うままにやって見てください、そなたは神の中にいるのですから、いくら暴れ廻っても神の外には出られなにのです、死んでも神の中にいるのです、思う様にやって見て早く得心、改心してください、改心して仕事嘉事と仕え祀ってください、結構なことなのです、そなたは自分は悪くないが周囲が良くないのである、自分は正しい信仰をしているのだから、家族も知友も反対する理由はない、自分は正しいが他が正しくないのだから、正しくない方が正しい方に従って来るべきだと申していますが、内にあるから外から近寄るのであると申してあるでしょう、そなたは無低坑主義が平和の基だと申して右の頬を打たれたら左の頬を差し出していますが、それは真の無抵坑ではないのです、よく聞いてください、打たれる様なものを 持っているからこそ打たれる結果となるのです、誠に磨けて誠に相手を愛していたならば打たれる様な雰囲気は生まれないのです、頬を打たれないでください、生れ赤児を見なさいと知らせてあるでしょう、頭を下げて見てください、流れて来るのです、頭も下げず低くもならずにいても流れては来ないのです、神の恵みは淡々とした水の様なものです、そなたは頭が高く天狗なのです、その鼻を曲げて自分の臭いを嗅いで見てください、そなたは左に傾いているのです、左は見なければならないですが、片よって歩いてはならないのです、そなたは右を歩きながらそれを中道と思っているのです、そなたは平面上を行っているから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じていますが、それでは足りないのです、立体の道を早く悟ってください、正中の大道があるのです、左でもなく右でもなく嬉し嬉しの道があるのです、左も右も上も下も相対の結果の世界です、原因の世界に入らなければならないのです、平面から見れば相対はあるのですが、立体に入りさらに複立体、複々立体、立立体の世界を知らなければならないのです、相対の世界では争いです、戦です、真の世界平和は今のやり方、考え方では成就しないのです、三千世界平和から出発しなければなりません、そなたは神示を良く読んでいるのですが、それだけでは足りません、神示を肚に入れなければなりません、つけ焼刃ではならないのです、神示を血として生活すれば、何事も思う通りにスラリスラリと面白いほど栄えて来るのです、思う様に運ばなかったら省みてください、自分が自分にダマされて、自分のためだけに為していることに気づかないのでしょうか、それが善であっても自分のためだけならば死んで、善のための善ならば弥栄えるのです、善にも外道の善があるので心してください、神示を見ていないとびっくりが出て来るのです、この世始まって無かったことが出て来るのです、世界の片端浜辺から出て来るのです、分かりましたか、そなたは神体を偶像と申していますが、それはそなた自身が偶像であるからです、礼拝を忘れ、祈りを忘れることは神を忘れることです、そなたの住んでいる段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならないのです、拝まないで拝んでいる境地はなかなか出来ないのです、そなたは自分が助かろうとするから助からないのです、世界はこの世ばかりではないことを良く得心してください、我を捨てて素直になってください、三千年の秋が来ているのです、そなたはよく腹を立てるのですが、腹が立つのは慢心からです、よく心得てください、下肚からこみ上げて来る怒りは大きな怒りですから怒っても良いのですが、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくしてください、怒りに清い怒りはないとそなたは思案しているのですが、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りがあるのです、そなたはいつも自分の役に不足を申す癖があるのです、その癖を直してください、長くかかってもよいですから、根の音(ね)からの改心が結構なのです、手は手の役、足は足、頭は頭の役がそれぞれに結構なのです、上下に貴賎ないことはそなたには分かっている筈なのに早く得心してください、そなたはこの神ときわめて深い縁があるのです、縁あればこそ引き寄せて苦労させているのです、今度の御用は苦の花を咲かせることです、真理に苦の花が咲くのです、因縁のそなたなのです、一聞いたなら十が分かるのです、言われない先に分かってもらわなければならないのです、知らせてからでは味が無いのです、十人並みなのです、今度の御用は千人力ですから十人並では間に合わないのです、人間の目は一方しか見えないのです、表なら表、右なら右しか見えないのです、表には必ず裏があり、左があるから右があるのです、自分の目で見たのだから間違いないとそなたは我を張っているのですが、それは只一方的な真実なのです、独断は役に立たないのです、見極めた上にも見極めなければならないのです、霊の目も一方しか見えないのです、霊人は何でも分かっていると思うと大変な間違いが起きるのです、一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは一方が違うのです、そなたは中々立派な理屈を申すのですが、理屈も必要ではありますが、泡の様なものでそなたの財産にはならないのです、体験の財産は死んでからも役に立つのです、懺悔してくださいと申しても人の前で懺悔してはならないのです、人の前での懺悔は割引した懺悔、割引した懺悔は神をだまし自分をだますことになるのです、悔い改めてください、深く省みてください、深く恥じ畏れてください、心して慎しんでください、直ちに良き神界との霊線がつながるのです、霊線がつながればその日その時から良くなって来るのです、気持が曲ったら霊線が切り替えられるのです、そなたは何時もあれも良いらしいこれも良いようだと迷って、迷いの世界を生み出して自分で自分を苦しめているのです、気の毒なことです、これと一応信じたら任せ切ってください、舵を放して鳴門の渦の中に任せ切ってください、任せ切ると開けて来るのです、悟れたようでそなたが悟り切れないのは任せ切れないからです、そなたはいつも孤独なのです、そなたの不運は孤独からです、友を作ってください、友うを作ることは己を作る事であると申してあるでしょう、友を作ることは新しい世界を作ることです、一人だけの世界は知れたものです、一人では誠の道を生きては行けないのです、友と申しても人間ばかりではないのです、山も友、川も友、動物も植物も皆友です、大地も大空も皆友となるのです、何もかも皆友です、皆己なのです、皆々己となれば己は無くなるのです、己が無くなれば永遠に生命する無限の己となるのです、御神前で拝むばかりでは狭いのです、野菜を拝めば野菜が、魚を拝めば魚が己となるのです、拝むことは和すこと、和すことが友つくる秘訣なのです、友を己とすることは、己を友とすることです、友に捧げることなのです、親は子に捧げるからこそ、子が親となるのです、分かりましたか、赤ん坊のお尻を拭いてやることもあるのです、そなたが赤ん坊と同じならば出来ない芸当です、お尻を出す者があっても決して怒ってはならないのです、子のお尻と思ってきれいに拭いてやるのです、お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけの訳があるからです、そなたは利子は後から支払えばよい思っているのですが、先に支払うこともあるのです、世が迫って来ると先にお尻を拭かなければならない事も出て来るのです、その代わり後で神がそなたのお尻をきれいに拭いてくださるのです、ぶつぶつ言わないで勇んでやってください、そなたは他に物を与えることに心しなければならないのです、与えることは頂くことになるのですから、与えさせてもらう感謝の心がなければならないのです、強く押すと強く、弱く押すと弱く跳ね返って来るは良く分かっているでしょう、自分の物と言うものは何一つ無いことは良く分かっているはずです、そなたは失業したから仕事を与えてくれと申していますが、仕事が無くなってはいないのです、仕事はいくらでもあるのです、何故に手を出さないのですか、そなたはすぐ金にならなければ食べては行けない、金にならない仕事は出来ない、自分は良いが妻子が可哀そうだからなどと申していますが、どんな仕事でも、その仕事に融け込まなければ、その仕事になり切らなければならないのに、そなたは目の先の欲にとらわれ欲になり切って、目の色を変えているのです、それでは仕事にならないのです、仕事は神が与えたり人が与えてくれるのではないのです、自分自身が仕事にならなければならないのです、この道理さえ分かれば失業は無いのです、自分が仕事なのです、春が来れば草木に芽が出る、花が咲く、秋になれば葉が枯れるのです、時節を良く見て取り違いしないようにしてください、時節ほど結構なものも無く、また恐いものもないのです、丁度呼吸の様なもので一定の順序があるのです、吸の極は呼となり、呼の極は吸となるのです、これが神の用(はたらき)であり、神の現われの一面ですから、神も自由にならないのです、この神も時節には勝てないのです、そなたは時々時節を無視して自我で、あるいは時節を取違いして押しまくるから失敗したり怪我したりするのです、素直にしていれば楽に行けるようになっているのです、時を待てば煎り豆にも花が咲くのです、水が逆に流れるのです、上下にでんぐり返るのです、上の人が青くなり、下の人が赤くなるのです、取り違いしないように理解してください、そなたは一度申したことを何処までも貫くのは結構なのですが囚われているのです、この神は今までにない大きな変化を起こすのですからあまり小さく囚われていると分からないことになって来るのです、固まる時には一度に固まらなければならないのです、昨日は昨日今日は今日です、そなたは動機が善なら失敗は薬だと自分の都合の良いように自分の弁解をしているのですが、弁解したのでは薬にならないのです、毒となることがあるのです、省みてください、そなたは何神様でも仏でも何でもかんでも拝んでいるのですがその順序と区別がよく分かっていないのです、分からずにめくらめっぽうに拝んではならないのです、心得てください、そなたは忙しい忙しい神示を読む時間も無いと申していますが、忙しいのは神の恵みなのです、よどんだ水は腐るのです、忙しい中にこそ神示を読む時があるのです、逃げ道を作ってはならないのです、そなたは自分の力を人に見せようとしていますが、無邪気なものです、自分の力が隠せないようでは頭に立つことは出来ないのです、何もかも出し切ってしまったのでは味が無くなるのです、そなたは良く祈る、祈る事は結構なことですが、祈るばかりではものごとは成就しないのです、為すには先づ祈らなければならないのですが、そなたはそなたの神にのみ祈っているのです、為すのは己であるから己に祈らなければならないのです、己に祈った後に己が為さねばならないのです、乳房を与えられても自分で吸わなければ自分の身にはつかない道理です、だが為したのみでは未だ足りないのです、時々は省みなければならないのです、そなたは形式や口先ばかりでものを拝んでいるのです、口と心と行と三つ揃わなければならないのです、三つ揃って拝むならばどんなものでも与えられるのです、拝む所へものは集まって来るのです、神も集まって来るのです、足りないものがなくなるのです、余ることがなくなって満たされるのが誠の富、清富です、そなたの苦労は取越し苦労です、心配りは忘れてならないのですが取越し苦労、過ぎ越し苦労は要らないのです、そうした苦労はそうした霊界をつくり出して自分自身で要らない苦労をするのです、何事も神に任せてください、そなたはまだ神業の取り違いをしているのです、そなたの現在与えられている仕事が神業なのです、その仕事をより良くより浄化するように行じなければならないのです、務めた上にも務めなければならないのです、それが御神業であるのです、そなたはそなたの口と心と行いが違うから違うことが次から次に折り重なるのです、言葉を正して行かなければならないのです、苦を楽として行かなければならないのです、苦と心するから苦しくなるのです、楽と心すれば楽と出て来るのです、少しの心の向け方、霊線のつなぎ方なのです、そなたは悪人は悪人であるから神として拝むことは無理であると申しているのですが、一枚の紙にも裏表があるのです、そなたはいつも裏ばかり見ているからそんなことになるのです、相手を神として拝めば神となるのです、この世は皆神の一面の現われであるのです、そなたは現実世界のことばかりしか分からないので、現実のことばかり申して一に一を足すと二だと信じ込んでいるのです、現実界ではその通りなのですがそれが平面の見方考え方と申すものです、いくら極めても進歩も弥栄えも無いのです、一に一を足すと一の世界、一に一を足すと無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得しなければならないのです、そなたは心を持っているでしょう、心があれば心の属する世界のある道理は分かるでしょう、心で描いて心で先づ作り出してから行為することもその順序も分かるでしょう、心の動きが先で肉体がその後で動くことも分かっているでしょう、心の世界に無いものは物質の世界に無い道理も分かるでしょう、どうして迷うのですか、霊界が主で現界が従であることを分かってください、逆立して自分自身で苦しんでいることを早く得心して、嬉し嬉しで暮してください