聖書を理解する 32号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡イエス様の愛

●考察➡愛について考察するのは違和感がありますが、自分の罪とイエス様の許しについて考えるとイエス様には愛があると判断出来ます、罪の無い人は裁かれることはありません、イエス様だけが罪が無いのに裁かれた方です、人は誰もが罪を犯しているので罪の代価を払って清算する必要があります、今の社会では罪を犯した人は刑務所に服役して罪を償(つぐな)うということです、刑務所に入らなくてもその人の罪は事実として残っていますので、積み重なることになります、いつかは清算しなければならないというのが聖書でもあります、いけにえで代価を払うか、奴隷や捕囚となって苦労するか最後の審判で清算するかというのが聖書なのです、自分の罪を知らん顔出来ないのが聖書だとも言えます、アダムとエバの時から人は罪を犯したので清算しなければならないのです、しかも人の裁判は正しい裁判では無いので神様が裁くというのです、聖書の特徴は神様の裁判があると言うことです、日本でも子供のころから悪い事をすれば地獄に落ちるとかエンマ大王に舌を抜かれるとか言われて育ちました、ある意味での戒めがあったのです、神様の刑罰とイエス様の愛のことですが、自分の罪をいろいろ思い出すと恥ずかしくなるくらいの罪が出て来ます、ますます自分は罪深いと感じるようになります、信仰とは罪の告白ですから自分の罪が浮き彫りにされることは信仰している証拠でもあります、自分は悪い事をした覚えが無いという人は信仰していないのです、信仰のスタートもしていないのです、イエス様は罪人を救いに来たメシアですから罪を自覚すればするほどイエス様の救いが必要となります、イエス様を求めるという意味です、愛には求めるという部分があります、必要ないという愛はありません、こんな罪深い自分を許して救い出そうとする愛がイエス様の愛ではありますが、いつまでも罪の世界から抜け出せない自分をなんとかしようとするのもイエス様なのです、罪を許したからこれで終わりとならないのです、罪人が聖人になってそれで終わりとならないのです、あなたを救ったからさようならではないのです、さようならが無いのがイエス様の愛なのです、別れが無いということはいつまでもイエス様を必要とするのです、終わりが無いイエス様の愛ということです、自分の罪は完全に無くなったとはならないのです、自分の十字架を背負ってイエス様に従うというのは罪は完全には消えないということでもあります、救い主であるイエス様を必要としないということは愛も無いということになります、主を呼び求めるということは主を必要としている愛もあるのです、現世利益を求めるよりもイエス様を呼び求めることが愛です、イエス様を呼び求めることは正しい信仰です、主よ来たりませという人には愛があるのです。