聖書を理解する 19号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡聖書の結論とは何か

●考察➡今の時代は情報化社会です、世界中に情報を一瞬で流すことが出来ます、過去と違うのは情報化ということです、外国で何が起きているか映像で見ることが出来ます、ただし都合の悪い情報は規制されていることもあります、何でもかんでも知ることは出来ません、特に悪いことをしていれば隠すのが人間の習性だと考察して来ました、アダムとエバの時から人は「隠す、隠れる」となりました、そして責任転嫁するのが人の遺伝子として組み込まれました、人はどんなに宗教修行しても、遺伝子は変わりません、人は水と霊から生まれ変わらないと変わらないとなっています、罪の告白をして神様の霊を再び吹き込んでもらうのです、そうすると人としては同じですが、罪の自覚を持った人になり、自分より神様優先の生活に変わります、罪の自覚の無い人は自分が偉いと思っていますから、自己中心の生き方をします、罪人としての謙虚さが無いのです、罪人として隠れるのとは違います、罪を隠さない人になるということです、犯罪者としてつつましく生きるのが「従う生き方」です、刑務所で暴れまわるのではなく、刑務所では静かにおつとめすることです、刑務所の規則に従っておつとめする、それが罪人としての生き方です、刑務所で自分らしく生きるなどという人生観は通用しません、罪を自覚したならば「つつましく従って生きる」のです、聖書は一貫して人は罪人だからイエス様に従うことが祝福されるとなっています、イエス様の「くびきは軽い」となっています、イエス様は重労働を課すことはしません、奴隷のように扱うのではなく、弟子のように扱う刑務所です、自分は罪人であると自覚したならば罪人らしく刑務が終わるまで、何が起きてもイエス様を信じて耐え忍ぶという刑務(おつとめ)です、これが聖書の結論なのです、イエス様は罪は犯さなかったですが、この世では苦しみを受けると教えています、誰もが安楽に生きれる世界ではありません、人の罪で地は汚れてしまったので苦役が課されました、苦役から逃れることは誰も出来ません、イエス様に従う苦役を乗り越えて次の世界へと向かうことになります、自分は罪人と自覚してイエス様を救い主として苦役する、これが今の時代の生活です、イエス様の御国が来ますように、イエス様の言う通りになりますようにと気持ちを合わせることです、イエス様に全幅の信頼をしてイエス様に任せる、天の父もイエス様にあらゆる権威を委ねたのです、自分の願望はあるかと思いますが、普通の人の願望は欲望です、自分の欲望を達成して成功したとはなりません、罪人がさらなる罪を重ねるだけです、イエス様に従うという生き方は自分よりイエス様を優先させる生き方となります、そんなことがあってはなりませんとイエス様に自分の意見を言ったのは弟子のペテロでした、イエス様に意見することは悪魔の発言となるのです、どんなことが起きてもイエス様の言う通りです、情報を流している人がイエス様の名を出すことはほとんどありません、情報の垂れ流しをして自分を売っているようなものです、聖書の結論は次の世界に行くならば自分は罪人と自覚してイエス様を信じて従いなさい

となります、次の世界に行けるかどうかはイエス様が決めるので心配しなくても大丈夫です。