おはようございます
今日は猛暑になるということでくれぐれもお身体にお気をつけください。
ちょっと遠征に出てきますが、富岡製糸場の話は書いておいたので、毎日上げておきます。
↓前回のお話はこちら
前回までは富岡製糸場の話をしました。今回は2つ目の登録遺産である田島弥平旧宅です。
その名のとおり田島弥平さんという方が住んでいた家ですが、この田島弥平がどんな人かというと、
端的に言うと養蚕をするに適した建物のつくり、育て方を考案した人ということです。実は今度一万円札の肖像画になった渋沢栄一とも縁戚関係があったりします。
昔は当然に空調設備なんてありませんから、特に夏の暑い時に何も考えず蚕を育てようとしてもうまくいくわけがありません。そのため、蚕を育てる部屋の構造を工夫することで換気をよくし、自然のままに蚕を育てるという「清涼育」を編み出しました。
田島弥平は「養蚕新論」「続養蚕新論」という著書も残しており、説明が詳しく的確だったといいます。また当時文章だけの書物が多かったところこちらは挿絵を多く採用し大変読みやすいものだったそうです。
ここの訪問は2023/8/20と4箇所の登録遺産で最後となりました。最後に話する荒船風穴訪問した後ここだけが残っていたので、行かないわけにはいかないということです。
田島弥平旧宅は群馬県伊勢崎市にありますが、なんと利根川の南側、
利根川と埼玉県に囲まれている
ところにあります 利根川に沿って県境が引かれていないところがあるんです。この辺りに住んでいる人はコロナ禍で県をまたがない移動をするには利根川を船か自力で渡るしかありませんでした
逆に利根川の北側が埼玉県というのも妻沼(現熊谷市)や北川辺(現加須市)とあります。北川辺は橋で埼玉側と繋がっていますが、妻沼の方は上記と同じことになりました。
言い忘れましたが、富岡製糸場以外の登録遺産は車でないと不便な場所にあります。
当日は毎度のことながら上里カンターレに寄ってから目指します。
喜多方ラーメン坂内で焼豚ラーメンを食べていく₍₍(ง˘ω˘)ว⁾⁾ 喜多方ラーメンはチャーシューメン一択です。
田島弥平旧宅近くにある島村蚕のふるさと公園に車を止めます。
旧宅に行く前に、田島弥平旧宅案内所に。ご覧のとおり廃校になった小学校の建物を案内所として使用しています。大学行っていた頃に群馬の埼玉側にある小学校の話のビデオを見たことがあるのですが、おそらくここだと思います。廃校になってしまったんだな
ここでは養蚕についてと田島弥平旧宅について詳しく説明してもらえました。もちろん無料です。
またこれに関するビデオも見せてくれるので、旧宅に行く前に寄っておくと、旧宅行ってからの理解が深まると思います
この辺りで養蚕が栄えたのは近くの利根川が時期によって二分三分する関係上河川が氾濫しやすく水が出るため、逆に蚕を育てるのに都合が良いらしいです。確かに桑畑もそうですし、富岡製糸場に水をたくさん使うので水を溜めておく鉄水溜がありましたからね。
島村蚕種業績之地の石碑。
やはり蚕が食べる桑を育てている桑園が多いようです。
田島弥平旧宅に向かいます。
国指定史跡の石碑。
正門
こちらが田島弥平旧宅の主屋です。入場は無料ですが、ここでは田島弥平の子孫にあたる人がこんにちも生活を営んでいるのです。そのためほぼ外観しか見ることができません。
こちらは桑屋のようです。
井戸の跡。
ここの部屋には入ることができました。先ほど河川氾濫するため養蚕に適しているという話をしましたが、建物が川に流されたら元も子もないのでこのように嵩上げされています。また2階と屋根裏で蚕を飼っているのですが、1階がダメになってもいいようにふすまとかを容易に外せるような仕組みになっているそうです。
香月楼と別荘の跡。香月楼は後になったから使われた蚕室でこちらは冷蔵庫を備えたものだったようです。最終的には文明の利器を使ったと
別荘は田島弥平が晩年に隠居したところのようです。
主屋の右側にももともと建物がありましたが連絡通路になっているところに注目すると…、
屋根になんか日本的でない飾りがついています。
田島弥平はイタリアに蚕種(蚕のたまご)を売り込みに行った時期があり、その時に見たイタリアの駅の屋根の装飾を自分の家にも取り入れた可能性があるようです 確かに似ていますね
それにしても未だに屋外のトイレを使用しているんか
左側の赤い三角が田島弥平旧宅あたり、右の十字カーソルのあたりに渋沢栄一と尾高惇忠の旧宅があります。これを見ても10kmも離れていないところにお互い住んでいたことがわかります。
田島弥平旧宅のお話はこれでおしまいです。
次は高山社跡です。