Minahei

Minahei

ライター戸塚美奈のブログです。


(※長いです)

 

映画「砂の器」を観た。

加藤嘉がすごい、どうしても観てほしい、と、ひとりでBS テレビでやっていた映画「砂の器」を観た夫が言うので、録画を視聴。

見終わっても、加藤嘉のつぶらな目が頭から離れない。主演は刑事役の丹波哲郎のほか重要な役どころの豪華俳優が出演しているというのに、頭の中は、加藤嘉ばかりが心に残ってしまう。とんでもないものを観てしまったと思った。

1974年公開、松本清張原作、野村芳太郎監督、橋本忍、山田洋次脚本の大ヒット映画。

 

映画版の筋はこう。

東京、蒲田で男が殺された事件を追う刑事は、聞き込みから、被害者が殺される前に若い男と話していたこと、その時の被害者の訛り、口にしていた言葉から、かつて被害者がいた村を割り出す。しかし、被害者は人柄のよい、きわめて善良な巡査で、恨みをかうような人物ではなく、東京にも縁はなかった。20年程前、その巡査がいた村に、遍路の末たどりついた父子がいた。らい病(ハンセン病)となって故郷を追われた父がひとり息子を連れ、行き倒れとなったのだ。らい病への差別意識がひどかった時代のことである。被害者は、その父子を説得し、父親を療養所へ送り、子どもを保護していた。そして、この子どもこそ、捜査線上に上がっていた、被害者が殺される直前に会っていた男、新進気鋭の天才音楽家だった。――――

 

この映画の肝は、後半、刑事が犯人を割り出したあと、容疑者の背景が語られる場面で流れる、旅する父子の映像だ。村に行けば村人に小突かれ、子どもたちにいじめられる。父子は人目につかない場所に隠れ、わずかな食事を分け合って食べ、寒いときにはお互いにしがみついて眠る。美しい日本の四季の風景の中を、ふたりでさまよい歩く。

病の父親は力尽き、ほとんど行き倒れとなってたどり着いた村で、心優しい巡査に保護されるのだ。巡査に説得され、ついに父親は子を巡査に預け、療養所に行くことを承知する。父とわかれ、巡査夫妻と暮らし始めたが、しかし、子どもは逃走する。子どもは大阪で奉公人となったあと、空襲や戦後のどさくさを経て戸籍を変更して名前を変え、進学し、作曲の才能を開花させていく。

名声をつかみ、大物政治家の娘と婚約し、政治家の協力を得て作った大作を発表する、栄光の晴れ舞台の直前に、晴天の霹靂、あの巡査が訪ねてくる。旅先でたまたま現在の彼の写真を見つけ、その足で東京までやってきた。彼はこれまで療養所の父親に、必ず息子に会える日が来る、と手紙を出して励まし続け、失踪した子どもを探し続けていた。「なぜ、お父さんに会いに行かない、お父さんは待っているぞ」切々と訴えたのだ。犯行はその直後だった。

作曲家には事件の証拠の隠蔽を手伝った昔からの恋人がいた。あなたの子を妊娠した、ひとりで育てます言う恋人に、作曲家は絶対にダメだと中絶をせまる。口論になって別れたあと、恋人は流産し、出血で死んでしまう。後日作曲家は恋人のアパートを訪ねたが、その指紋で足がつく。

晴れの舞台で、音楽家は「宿命」と名付けられた渾身の一曲を披露する。そのステージの裾に、逮捕状を持った刑事が控えていた。

 

推理ものなので、主役は刑事であるところの丹波哲郎、犯人であるところの加藤剛のはずなのだが、頭に残るのは、父親役の加藤嘉とその子役のほうだ。というか、それしか残らない。

父と子がふたりで旅をする場面、療養所に送られる日、父親が横たわった荷台から起きて、息子を見つめる目。やせこけた加藤嘉の丸い目が、目に焼き付いてはなれない。最後に、刑事がやってきて、容疑者の作曲家の写真を出す。息子であることに気づいて嗚咽しながらも、父親は「知らん」と言い張る。思い返すだけで胸がつまるクライマックスだ。

 

映画自体は、前半が長すぎるし、推理もとってつけたような感じだし、第一、身寄りのない子どもが音楽家として大成するという話はあまりにも現実味がない。それでも、この映画が支持され圧倒的に評価されたのは、父と子の旅して歩く姿に誰もが心を奪われるからだ。ぼろぼろの乞食同然の姿の父親が子どもを慈しみ、子どもも父だけをたよりについていく映像を観るうちに、忘れていた感情がよみがえってくる。幼いころ食べさせてもらったご飯、抱いてもらったぬくもり、親への思慕、幼い日々への強烈な懐かしさがこみあげてくる。

 

映画を観て、これにかなり「砂の器」について書かれていたはず、と、以前読んだ春日太一著『鬼の筆』を取り出した。「羅生門」「七人の侍」「八甲田山」等の脚本で知られる橋本忍の評伝。確認だけするつもりが、読み始めて止まらない。

以前ざっと読んだときには、その真価がわかっていなかった。というか、この本の真価は、映画「砂の器」とセットでないと理解できないのでは?と唸ってしまった。(まぁ脚本家の代表作なのだから当たり前のことなのだが)

 

本には、どうやって映画が作られたかがかなり詳しく記されている。

松本清張から、読売新聞の連載が始まる時点ですでに、監督の野村芳太郎と橋本忍に映画化の話があった。承知したものの、しかし、内容がまったく面白くない。もうやめようかと思いながら山田洋次と舞台となる島根に出かけた先で、橋本忍は、これは父子の旅の話にしよう!これだけで映画が出来た、と確信し、あっという間に台本もできたのだという。

しかし、ホンはできたが、松竹が難色を示し、企画は頓挫してしまう。

その後、橋本忍は父を亡くす。父が枕元に置いていた脚本が『砂の器』。遺言が「これは当たるよ」。映画会社は渋り続けたため、橋本忍はついに、自らプロダクションを立ち上げる。紆余曲折ののち、やっと企画が動き出す。

 

映画では父子の旅は目が離せないシーンなのに、じつは松本清張の原作では、たった3行しかない。橋本忍はシーンのロケに随行し、編集も自ら行い、圧巻の父子の旅のフィルムを作り上げた。「絶対に当たる」と、賭けた。フタを開けてみれば予想以上の大ヒットとなる。

 

橋本忍脚本の作品は、黒澤作品しかまともに観ていなかった私が、この評伝をなぜ読んだかというと、だいぶ前に新聞で読んだ、弟子であった山田洋次の語るところの橋本忍像がたいへんな職人気質だったため、職人のように書き物をするひと、ということで興味をひかれたから。ところがこの評伝を読むと、職人のように書くことはむろんその通りだったが、何より、イチかバチかの勝負師として書かれていた。それはかなり意外だった。そして何より、「砂の器」大ヒットのために、東宝に頼まれて脚本を書いた「人間革命」のよしみで創価学会を動員していたということもかなり驚いた(というか最初読んだときは映画を観るときにいつもクレジットにあった「シナノ企画」とはそのことだったのか、とたいへんショックを受けた)。

 

橋本忍が勝負師になった理由は、芝居小屋を経営していた父親の影響だった。興業の世界は、勝つか負けるか。客が入れば大儲け、外れれば財産を失う。しかし父親は当たる当たらないの嗅覚がバツグンにきき、芝居小屋は繁盛し、橋本忍が脚本家として東京に居を構えるまで商売をしていたというから相当なものである。小さいときから父親の商売を間近で観ていた橋本忍にとって、己の脚本で人が呼べるか一か八かの大勝負は、父親と一緒に旅をしているようなものだったのかもしれない、とも思えてくる。

 

思いがけず再読できて、分厚い本を閉じて、初めて、本のカバーが、映画「砂の器」のポスターだったことに気がついた。帯が邪魔していて気にとめていなかった。

著者は、極力私的なイマジネーションを排除して、事実を詳細に検証しながら書くことに徹している。ざっと駆け足で読んではもったいない、個別の作品を知った上でじっくり読むべきだったと思った。インタビューの言葉が多く資料的価値も高く、何度読んでも発見があって面白い。大宅賞にふさわしい名著、橋本忍脚本の作品を観る度に、読み返すことになると思う。

 

『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』春日太一 文藝春秋

 

『砂の器』映画化に際して、松竹が映画化を渋ったのは、ハンセン病のことを扱っていたからだという。

『砂の器』を観たあと、その時期のハンセン病のことについて調べた。すぐに以下の記事がヒットする。

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n278/n278015.html

「文学にみる障害者像 松本清張著『砂の器』とハンセン病」著・荒井裕樹

という文章を読むことができ、『砂の器』の背景を知ることができる。かつてハンセン病はらい病とよばれ、「業病(前世の罪の報い)」であり、「悪しき血筋による病」という迷信があった。ちょうどこの作品の父子の旅の舞台となる昭和10年代は、らい予防法のもと、無癩県運動という患者を療養所に送ることをしていた時代で、ひときわ、らい患者への差別迫害がひどかった時代であることがわかりやすく書かれている。

その文章によれば、『砂の器』は、テレビ局により2回ドラマ化されているという。(2回以上らしい)。私はいずれも観ていないが、ともに、父親の病気はハンセン病ではなく、ひとつは精神障害者、より新しい作品は病気ではなく「31人殺し」の犯罪者として設定されているというから驚く。人権問題で病気の扱いが難しくなっているからとはいえ、どうなのだろうか。

また、先の文章には、松本清張によってこの作品が書かれたのは、昭和35年、すでにハンセン病は科学的治療法が確立しており、患者たちの権利獲得の運動も始まっている。その時代であるにも関わらず、犯人にとって殺人を犯すほどの「社会的負性」としてハンセン病が扱われていることへの疑問が呈されている。映画公開はさらに9年後であり、脚本によって幾分考慮されているものになっているとも。

 

たしかに、昭和22年から特効薬の使用は開始され、治療法は確立してはいた。けれど、昭和35年時点、映画公開時の49年になってもまだ、法律「らい予防法」は戦前の隔離法のままであり、優生保護法によって患者は不妊手術や中絶を強制されていた。この優生保護法、らい予防法が廃止されたのは、恐るべし、1996年、平成8年である。このときようやく、病名も「らい病」から「ハンセン病」にあらためられた。「らい病」の名称とともに科学的根拠のない人権無視、優生思想の法律が、ついこの間まで居座っていたことを忘れてはならないだろう。

そもそも、この作品の核は、「優しい巡査を殺さなければならなかった程の犯人の生い立ちの不幸」、だけではないはずだ。

 

ハンセン病は皮膚に症状が出て治らない病気のため、昔から忌み嫌われる病気であったという。しかし、感染力が弱いことは周知の事実だったのだろう、古くは奥座敷や離れ小屋などで、ひっそりと暮らしていた例も多かったようだ。家族の迷惑にならないよう、『砂の器』のように家や村を出て旅をする「放浪癩」と呼ばれる人もたくさんいたというが、それは江戸時代終盤からともいう。さかのぼって1600年、関ヶ原で小早川秀秋の裏切りにより敗北した大谷𠮷継は、時代ものではよく白いかぶり物をして描かれるが、ハンセン病を患っていたといわれる。大将とはいえ、とくに隔離もされずいる様子が描かれる。

 

ところが、明治時代になると、少しずつ状況が変わってくる。1897年の伝染病予防法につづき、1907年(明治40年)、「癩予防ニ関スル件」という法律が制定され、浮浪する患者の隔離が始まるのだ。日露戦争に勝利し、欧米列強に肩を並べる一等国としては、病人がふらふら歩いていては困る、と。また、徴兵制のために検査で病気が発覚し、隔離される例も増えた。次々と病気の原因菌が発見された時代だ。北里柴三郎はらい病の患者を隔離すべしと強く訴えていたひとりである。

病の原因菌が発見され、国家により法律が作られたことで、完全に隔離されるべき病となってしまった。富国強兵の流れがそれを後押しした。江戸時代にはひっそり暮らしていた患者たちが、社会にとって許されない、排除される存在になっていったのだ。

 

昭和になると、大正天皇の后、貞明皇后からの資金をもとに、昭和8年「癩予防協会」が発足、無癩県運動という社会運動が始まって各県に広がったことで、さらに状況はひどくなる。患者をみつけて密告し、療養所に送るという、激しい差別が始まる。ハンセン病は「国辱」とされ、民族浄化のため、患者狩りが行われた。

昭和20年、戦争が終わり、日本は民主国家となった。民主的な憲法も制定された。昭和22年には、特効薬の使用も始まる。しかし、そのあとも、この無癩県運動は続いていく。戦後、患者の収容の仕事は警察から保健所に変わった。じつは強制隔離が徹底したのは、戦後なのだ。

戦時中のナチス譲りの国民優生法は、昭和23年に優生保護法にあらためられた。しかし実質的には人口抑制のため人口中絶を合法化するための法律であり、そこには遺伝的疾患として、ハンセン病も対象として明文化されたのだ。これをもとに、患者に対する強制的な不妊・中絶手術が合法化され、隔離政策は徹底され、ますますハンセン病への差別が強くなっていく。息子がハンセン病であることから一家心中が起こるなど、患者が出た家族が差別の対象となってしまう、悲劇的な事件も多かった。

 

ハンセン病は、症状の重い患者と、免疫機構が確立していない幼児が長く接触した場合、感染する場合がある。通常は自然免疫があれば、まず感染しない。また、感染しても症状が出ないことがほとんどである。しかも昭和22年からは特効薬が使用されるようになり、治療法が確立している。感染力はきわめて弱いし、遺伝ではなく細菌感染が原因であることがはっきりわかっていながら、非科学的なことが、「国策」として行われ続けていたのだ。

優生保護法、らい予防法が廃止されたのは、1996年、平成8年。

 

隔離されたまま高齢になり、病が治っても戻る場所もなく療養所で暮らすほかない人たちが多かった。そのような元ハンセン病患者のグループが、温泉旅館への宿泊を拒否された事件があった。これは2003年のことだ。抗議した元患者たちに対し、全国から批難の手紙や電話が殺到したという。差別意識は形を変えて居座り続ける。恐ろしいことだと思う。

 

昭和の時代は、ハンセン病を、隔離するうつる病気というだけではなく、優生保護法のために、遺伝する病気、血筋の病気という非科学的な迷信が強調され、ことさら信じられていた時代だったのだ。だから、『砂の器』の犯人は、何が何でも出自を隠す必要があった。映画の中の、犯人が恋人に中絶を迫るシーンでは、遺伝、血筋の病気という偏見による苦悩をにじませている演出に見えた。

 

何の罪もない人が、病気にかかったということだけで、何もかも奪われ、社会から抹殺されてしまう。自分だけではなく、家族、子孫まで。これは「宿命」だろうか? 国の政策によって、すべてを奪われた犠牲者、被害者だ。

このような背景を考えると、善良で心優しい巡査が、そうは見えなくなる。病気の父親を説得して療養所に行かせ、そして励ましの手紙を出し続ける。法令に基づいて役割を果たしたのだ。江戸時代だったら、心優しく施しだけをして放っておけばいいことだろう。国家が、法律が、西洋医学の進歩が、彼にそうさせた。ひきとったばかりの子どもを、巡査は風呂に入れてゴシゴシ洗い、髪の毛をバリカンで剃り上げる。衛生業務は保健所のない当時、警察の仕事であった。善きこととして、彼はそれをやっている。その洗い方にはうっすら狂気が見える。人格者である巡査を、映画では緒形拳が演じている。

 

何度も映画化が頓挫したのは、ハンセン病の患者の会から制作中止の要請があったからとされていた。最終的には、制作側の、偏見を打破する役割をさせてほしい、の意図をくんでもらい、ラストシーンに字幕を流すことを条件に了承を得たという。そのような事情が脚本にどんな影響を与えているかはわからない。けれど、映画版では、善意の人がよかれと思ってやっていることが、知らぬうちに国家の歯車、手先となり、知らぬうちに人を差別し、排除し、追い詰めていることがあるのだ、ということを、とくに強調しているように思える。

松本清張は、この原作を改変された映画を、自作映画でもっとも素晴らしいと絶賛していたそうだ。

 

脚本家橋本忍の評伝『鬼の筆』の冒頭には、この脚本家のストーリーテリングの原点となる強烈なエピソードが書かれている。

橋本忍は幼少時、祖母にせがんで同じ昔話を何度も話してもらった。それは明治初期、維新の時代、年貢半減を県庁に認めさせるため地元で起こった一揆の話だ。凄惨な騒動の様子から、クライマックス首謀者の処刑シーンまで、詳細に語られるこの理不尽な話を、祖母は、いつも同じ文句で締めくくっていたそうだ。昔から一揆をしたら首を斬られるが、願いの一部は聞いてもらえた。が、明治の政府は首は斬るが、願いは一切聞かない、と。「先にいきゃいくほどムゴうなる、それがこの世じゃ」

 

近代国家というものは、人を踏みつけにして回っていく。そしてそれはどんどんひどくなる。橋本忍は青年時代、日本国が戦争に突き進む中で実感を持って見てきたにちがいない。

二年以内に死ぬと言われていたのに結核の療養所から逃げだし、役人になるのはイヤだから大学にも行かない、という橋本忍は国家というものを信じていない。

「だから、今にみんなの持っているお金が全部封鎖されて、一銭も使えないということが来るかもしれない。そんなことは、国家というのは何でも平気でやるからね、一番怖いことをやるんだ」(『鬼の筆』)

 

子どものとき、興行師の父親の背中を見続け、「無法な生き方がひどく気楽で自由で、羨望として心に焼き付いていた」という、橋本忍は、というロケ地でエキストラたちがゴザに座ってメイクしている姿を見て、「胸が張り裂けるほどの懐かしさ」を覚えたという。長期のロケ撮影での昼食では、監督やスターたちとロケバス出たベルのではなく、必ず、スタッフとともに外で弁当を食べていたそうだ。

「座った場所が食事スペースになる―――。そんな経験を橋本は、『これほど楽しいことはなかった』と振り返る。それこそが、「自由な何か」の正体だった。」(『鬼の筆』)

 

映画『砂の器』は、文化大革命で血統により人民の階級が決定され、そのため親子の断絶を生み、精神的な「孤児」を生んでしまった文革後の中国で、空前のヒットとなったそうだ(『砂の器映画の魔性 監督野村芳太郎と松本清張映画』樋口尚文 筑摩書房 劉文兵氏インタビューより)。父子の遍路の旅路は、追放された農村での貧困生活を思い出させて心にせまったとあったが、「あわれ」だから心を打つのではないのでは。食事を何よりも大切にする中国の人々が、加藤嘉と子役の男の子がおかゆを食べるシーンを見てどんなふうに思ったか、想像に難くない。親子でご飯を食べる、親子で寄り添って眠る。それこそが人にとって失ってはならない、一番大切なものなのではないかと思う。そして、それは人の権利であり、決して、誰にも、国家にも、それを奪う権利はない。

 

この絢爛豪華なメロドラマの感想は、人それぞれだろう。

私は、旅するように、自由に、生きよう、粗末なご飯でいい、家族とご飯を食べることを大切にしよう、と思った。

だんだん世界が悪くなる。気のせいか、そうじゃないみたいだ。でも、ご飯を自由に食べる権利は奪われてなるものか。

 

さあ、ここまで書いても、まだ父子旅の映像が頭から離れない……。

 

 

 

 

本当は家事は嫌いじゃない。時間さえあれば、料理でも掃除でもゆっくりやりたい。でも、忙しい。他にやるべきこと、やりたいことが山積みなんだ……・ただの言い訳、そんな忙しくはない。でも、だから、家事を前にすると、いつも焦りの気持ちが出る。「こんなことしてる場合じゃない!」

これが、家事がおろそかになる理由。

冷蔵庫がぐちゃぐちゃになる本当の理由。

  *

子どものころからの愛読書、沢村貞子さんの随筆『わたしの台所』。中に、掃除洗濯炊事が続くと…時折投げ出したくなる、という書き出しの一篇がある。小学生のときに読み、沢村貞子さんのような人でさえ、こんなふうに自分を鼓舞して家事をするんだ、と思ったが、大人になり家事が日常になると、いよいよ「投げ出したくなる」が実感となって迫ってきて、そのエッセイ冒頭に書かれたボヤキが、いつのまにか、私のボヤキになってしまった。

「・・・私がこんなくだらないことばかりしている間に、ほかの人はもっとむずかしい勉強をして、もっと立派な生き方をしているに違いない。私はこうして、ひとり取り残されて……。」

「ああ、もうこんなことはいや」「私はもっとずーっと高尚なことをしなけりゃいけないわ……」(「リズミカル・カジ」『わたしの台所』)

沢村貞子さんは思い出す。これまで演じた役の演技の手本となった、実際の働く女性たちの流れるようなリズミカルな手際のことを。それにならって自分の家事も手順を作り、リズミカルにすることで家事を楽しくしようと思い立つ。身体を使って、まるで演技をするように家事をする。

「(これは私のレクリエーション、そして私に適した美容体操)と思えば、優雅な気分にもなる。あれこれと工夫して、リズムにのって身体を動かすと、結構、高尚な遊びをしているような錯覚さえおきてくる。」

俳優さんならではの発想の転換。でも残念ながらこれが難しい。ある程度その動きに習熟するまで時間がかかり、そもそも取りかかるのがおっくうなナマケモノの私にはなかなか難易度の高いことだった。

                 *

1年前から、繕い物にイライラしなくなった。

なぜか。縫い物をするときにYouTubeを見る、という決まりを作ったため。気になる動画をチェックしておいて、繕い物の用事がたまったら、見ながらチクチクとやる。おかげで、昔はイヤイヤ取りかかっていた各種繕い物が楽しみになった。

これと同じように、台所仕事も、何か同時にやればよいのでは? 

でも私の場合、台所仕事でYouTube同時進行はムリ。動画視聴がダメなら耳だけ、と試しにラジオを聞いてみたが、これがまったくもって役たたず。CM がうるさい。道路情報なんていらない。「バカ言ってんじゃないよ」なんてコメンテーターに突っ込んだりして、完全に手が止まってしまう。なかなかいい番組がみつからないし、いちいち手を止めてチャンネルを回したりするのも面倒。ラジオはやめて、英語の勉強をしようと英語のアプリを聞いてみたがこれは馬の耳に念仏。……というか、台所仕事って、五感及び全身をフル回転してやるものなので、頭を持って行かれると食器棚の扉に頭をぶつけたりして、私の場合かなり危険ということがわかった。

「ながら」はダメか。

 

ふと、思い立って、聴こうと思って買ってあった中島みゆきの昔のCDをかけてみた。

若い頃はラジオから録音したカセットテープしか持っていなかった、ネクラでマルビの私。最近夫とテレビで懐メロを聴いて、カセットテープで聞いていた昔の中島みゆきの曲をもう一度じっくり聴き直してみたいなぁと思って購入していたのだ。

アルバム『おかえりなさい』は名曲「あばよ」から始まる。

「何もあの人だけが世界中でいちばんやさしい人だと限る訳じゃあるまいし」

唄が始まったとたん、魔法がかかった。

どういうわけか、「早く終わらせてやることやらなきゃ!」の焦りが解けた。

「あの人は、あの人は、おまえに似合わない~」

 

歌っていると、「○○しなきゃいけない」「このままではいけない」という気持ちが消えていく。

インスタで見た一点の曇りもない輝くキッチン、おもてなし料理、ていねいな生活、私のやりとげるべき(?)高尚な仕事……頭の中にいたキラキラした幻想が、消えていく。そして、「アタシはアタシ」「このままでいいさ」というなんとも開き直った気分になってきた。

冷蔵庫の中でしおれた野菜を取り出して始末する、汚れたキッチンの床を雑巾で拭く。雑巾をゆすいで外に干す。曲を聴いていると、なぜか、いつもならイライラする作業のひとつひとつをちまちまとやれてしまう。

ほとんどが失恋の唄で、台所掃除とは何の関係もないのに。

手際は悪く、不格好そのもの。でも、うつむいて雑巾を片手に持っている今の自分が、限りなく愛おしく思えてくる。

これどんなマジック!? 不思議すぎる!!

 

家事がイヤだったんじゃない。理想ばかり追って、焦ってた。今の自分に集中していなかっただけだった。

唄を聴きながらだと、雑巾で汚れを拭く自分に深く集中できる。雑念が消えていく。

ただの気分の問題で、他の音楽でもいいのかもしれない。でも、「このままの自分じゃだめだ」と煽りたててくるような歌詞はダメだろうなぁ。

中島みゆきさんの歌詞は、情けない今の自分をかわいがる曲だからしみじみくる。どんな唄を聴いても、絶対に否定されない。絶対に急かされない。

 

今、心底ほっとしてる。家事がイヤになったときは、いつでも中島みゆきを聴けばいいんだもの。いい曲はたんまりあるし。

 

 

 

『おかえりなさい』は研ナオコ、桜田淳子などに提供した曲を集めたもの。

『ルージュ』『しあわせ芝居』『この空を飛べたら』など名曲ぞろい。

 

『わたしの台所』朝日文庫
 

 

 

「冷蔵庫がいつのまにかぐちゃぐちゃになってしまう問題」に、私はずいぶん長いこと悩んできた。

仕方ない、やるぞと決めて、午前中まるまるをつぶし、死ぬ思いで冷蔵庫の片づけをやる。きれいになれば気分は最高、絶対にもうぐちゃぐちゃにしないぞ、と固く誓う。なのに、3日もすると怪しくなり、買い物に行ったりすれば元の木阿弥。で、困ったことに、私は、冷蔵庫がぐちゃぐちゃだと頭がおかしくなり、何もかもイヤになってしまうヤツなのだ。料理も仕事もする気がなくなって、ネットを見ることしかできなくなる。冷蔵庫の中身は私の心のバロメーターと言ってもいいかも。

だから余計に片づけてきちんとしておきたいのに……。

家事の達人のインスタや料理研究家の本を見て、あれこれやってもみたけれど、ぜんぜんうまくいかなかった。

そもそも、食生活のスタイルって、家庭でぜんぜん違う。同じにはいかないよ。

 

料理研究家の有元葉子さんの本には、冷蔵庫の整理のコツは、「開けたときに「食べないかも」と思うものがひとつでも目に入ったら、その場で処分」とあった。気になったものがあったら、先送りせず、そのときに始末をするべしと。確かに。それ大事。そして、その基準は、「おいしいかおいしくないかが、保存するかしないかの判断基準」と。(『有元葉子の台所術』筑摩書房)おおいに納得。ところが、私バカなんですかね、「おいしいもの、おいしくないもの」がよくわからず、判断の基準にならない(私の料理が下手なだけか……)。迷う物って、大根の葉のふりかけのような、とびきりおいしくはないが身体にはよさそうで、しかも自分が作った大根の無農薬の葉っぱだし、みたいな微妙なものばっかり。

 

で、いろいろ考えた末、冷蔵庫がぐちゃぐちゃにならないための冷蔵庫のルールを決めてみた。

 

・食べてみる! なんとなく傷んでいるような気がして放置する問題の先送りがいけない。これを実行して、食べてみれば案外美味しく食べられることがわかった。おいしいかおいしくないかはおいといて、まず食べてみる。口までもってきて、口に入れたくないものは捨てる!(傷んでいたら匂いでわかる!)

・傷んでいなくても、添加物の多い加工品は捨ててよし。

・生ゴミは乾燥させて庭や畑の土に還している(「ルーフェン」という生ゴミ乾燥機使用)のだから、安心して捨てるべし。

・ヤギみたいにやたら大根の葉や野菜の皮等を食べようとしなくてよし。これも土に還せばいい。

・できる限り買い物に行かない。買い物に行けば冷蔵庫に入れる物が増える。考えてみれば当たり前のことだ…。

・予定外のうっかり食材買いはしない。鍋の予定なのにイカも鯖も買っちゃうみたいなこと。どうせ料理しきれない!!せっかく料理しても食べきれない!!

・変わった調味料や珍しい食材を買わない。家族の食の好みは保守的なので。決まった物以外のものを買えば入れるところがなくなって往生するだけ。

・冷凍できるものは次々冷凍する。ただし絶対に「小分け」し、何かをしっかり「書いて」、冷凍する。

・食べる気がないものは冷凍しない。冷凍するものは「絶対美味しい」「家族が大好き」なものだけ!!

 

これだけ心に決めておいても、年末年始を経て、冷蔵庫は爆発寸前に。

3日前、また半日かけて、やっとの思いで片づけた。

今年はもうぐちゃぐちゃにしないぞ!!

 

3日前、片づけながら、冷蔵庫をぐちゃぐちゃにしないための、決定的なコツをみつけたのだが、それは……(次に続く)。

 

 

 

 

『有元葉子の台所術』筑摩書房

家事にイヤ気がさしたときに読み返す、大好きな本。

 

 

 

 

 

「一月はずっと正月」

 

今年ときたら、まだ七草粥も食べていないうちからすっかり正月が終わったような日常になっちまって。正月が短くてなんか寂しい。私は中学のときの数学の元木先生の名言「1月はずっと正月なんだ」を信じている。だから、1月中は堂々と餅を食べ、酒を飲んでいいと思っている。どうも世の中の人は働いて働いて働いているみたいだけど、私はまだお屠蘇気分でいいや。もうすこしぼやっとしていようと思う。もう誰かに急かされるのは懲り懲りだ!

 

 

ひのえうま 

 

2026年の今年は「丙午(ひのえうま)」の年。私は翌年の未(ひつじ)年早生まれだが、同学年は60年前のひのえうま生まれ。「ひのえうま生まれの女は気性が強くて男を殺す」なんていう迷信のおかげで人口グラフで見ると出生率がひときわ下がっている年代。長年この事実を面白がっていたけれど、よくよく考えると、なんと迷信に弱いのだろうとあきれてしまう。日本人ってきっと、非科学的なことが大好きなのだ。

とはいっても、小学校のとき、我々の学年はとくに人数が多かった。そして、ひとりひとり友だちの顔を思い出してみても、この学年の女性は格別に穏やかで、控えめで、我慢強いタイプばかりで、八百屋お七みたいな激型型は皆無であった(私が出会った丙午女子に限る)。

少子化のご時世であるせいか、旧年中も年頭も、丙午の話題はほとんど聞かなかった。もう迷信に惑わされるような人もいないだろうけど。今年の出生率はいかがなりましょうか? 

 

 

ねずみのように、ちまちま、少しずつ。

 

一昨年の暮れのことになるけど。我が家にねずみが出た。夜中に夫が「なんか音がする」と言う。泥棒かと何度も電気をつけ、玄関台所を見に行ったが何もない。しかし朝、流しに糞害を確認。

厳戒態勢のその晩、また夫が「チューチュー、って言ってる!」と。寝ぼけ眼で電気をつけキッチンに行くと、いた。まぎれもなく、尻尾のあるグレイのねずみが、台所の隅にいた。そして、落ち着いた様子で、キッチンの隅で私が再生水耕栽培していたレタスやセリを、かじっていた。

 

ゴキブリ同様、一度見た獲物は逃がさないが信条。自分でもよくやったと思うが、ねずみとの一対一の勝負の末、台所の隅に追い詰めて、プラスチックのケースに捕獲。

 

でもねずみはかわいかった。おむすびころりんなど、物語の挿絵のねずみそのもの。ターシャ・テューダーなら遊ばせておくだろうが、東京の住宅街でそんなことできない。プラスチックのフタを開けようと何度もねずみは飛びかかって騒ぎ、ふと見れば立ち上がって手を合わせている。ケースを覗きこんだ夫、「オレを見て「助けてください」って言ってる!」。ごめんなさい。プラスチックケースに入れたまま、極寒の庭に放置して殺すことにした。

結局、とりもちのようなねずみトラップを買ってきて、その日から3日かけて、計3匹のねずみを…………。

 

ろくに兵糧もない我が家の台所に迷い出て、食べるものがないから、少しだけ芽を出したレタスやセリをかじったり、ガスレンジに吹きこぼれたおかゆの乾いたのをなめたり。私の手作りのボロボロのミトンをつたって何度も失敗しながら(遊んでいたのか?)床に下りていたねずみ。 そのせいで簡単にプラスチックケースにはまってしまった。なんともかわいいねずみだったのだけど。

でも物語のねずみと現実生活のねずみとは違う。自然界、無用の情けは危険なり。でも、熊退治よりは、まし。

 

後日。

外国の芸術家のインスタで、すてきなイラストレーションを見つけた。

ねずみさんが自分の家で、本を読んで何か書き物をしているイラスト。部屋には本棚があり、植木鉢が並び、洗濯物は日に干されている。働き者で勤勉なねずみさんの日常の様子が浮かぶ。(その絵が欲しかったのだが、海外の方でどうしたらいいかわからないままになってしまって残念。)

仕事も家事も、ちまちま少しずつやればいいのだ。

私は長いこと、家事と読書や仕事等の知的作業が折り合いを付けられないでいた。仕事をすると家事をしなきゃと焦り、家事をすると仕事をしなくちゃと焦っていた。それがなぜか、この絵を見て、このねずみさんのように少しずつやっていけばいいね、ととても気持ちがラクになった。日々、洗濯をし、植物の世話をし、そしてお茶を入れて、少し書き物をする。本を読む。

きっと、日々の家事に追われている人たち誰もが、私のようなほっとした気持ちになる、そう思って、このイマジネーション膨らむ絵を友だちにあげる用にコピーもした。

夫にも見せた。「あんた、ねずみ殺したでしょ?」。ハイそうです。

 

あれから私の心の中には、ご供養のように(?)、働き者のねずみさんがいる。ちまちま、ちまちま、何事も少しずつ。去年一年、家事は少しずつやったかな。今年からは、書くほうも少しずつちまちま、やっていこう、と思っているところ。

 

 

忙しいから、もう野菜を作ったりはやめ!と決めて、森にする計画(?)にしたのに、何もしない去年1年間があまりにさびしく、反動が来た。

土を買い、春先、狭い我が家の猫の額ほどの庭にあれこれ植え付け。

私の適当なガーデニングをからかうのが趣味の近所のおじさんにめざとく見つけられる。「どうしたの、また盛り上がってるじゃない」「でもこんなに木が茂っていたんじゃさ。やることが逆だよね」ごもっとも。

日当たりがいまひとつなので、育ちが悪い。それでも太陽を求めてきゅうりはあらゆるところにツルをのばし、木にきゅうりが成っている。2階のベランダで育てているミニトマトは甘い。しかし押し合いへし合い、世話する私も壁にぶつかるしで、わき芽をかいたり、じょうろで水をやったりするのも一苦労。

それでも、いろいろとできて、日々の食卓を賑わせてくれているからありがたい。

猛暑の中でも健気に育ってくれる野菜を見ているだけで、心が満たされる。

 

上からみた庭の畑(?)

借りた畑

 

ダンサーで、『たそがれ清兵衛』等で俳優として知られる田中泯さん。

山梨で農業もされている。

小麦やじゃがいも、茶なども作るという本格派。

インタビュー等で畑を耕し種をまく様子を見て興味をひかれ、著書『ミニシミテ』を読んでみたら、「農のくらし」の章には農業への思いが熱く書かれていて、私も畑やりたいという気持ちを抑えきれなくなった。

 

もっとも印象に残ったのは、すべてが借地であるということ。石積みをし、先人たちが過酷な労働をして作られた田畑、「その土地を所有することなど考えもしないことだ」と。

そして自らを、「お百姓さんを一人勝手に任じている僕の体たらく」と。

 

哲学的な表現もあってやや読みにくい部分もあるけれど、著者の身体感覚から発せられた言葉、とても心にせまってくる。

 

「いつの日か、僕も専業のお百姓さんとして農の歴史に加わりたいと思っている。願っている。一本の木でも語り合うには余りある、一本の草でも時におじぎをしたくなる、そんなお百姓さん(ヒト)に成りたい、それが僕の愛するオドリでもある。地球の空気の危機を知ってか知らずか、権力と経済に脳を奉公させる生き物よ、出直して来い!」

 

『ミニシミテ』講談社

 

年輪を重ねた大樹のような威厳と存在感。こんな役者さんはいないから、田中泯さんは映画界で引っ張りだこだ。でも私はフクザツ。

田中泯さんが農の世界に戻れる時間がありますように。

 

 

あっという間に終わってしまったカサブランカ