「一月はずっと正月」
今年ときたら、まだ七草粥も食べていないうちからすっかり正月が終わったような日常になっちまって。正月が短くてなんか寂しい。私は中学のときの数学の元木先生の名言「1月はずっと正月なんだ」を信じている。だから、1月中は堂々と餅を食べ、酒を飲んでいいと思っている。どうも世の中の人は働いて働いて働いているみたいだけど、私はまだお屠蘇気分でいいや。もうすこしぼやっとしていようと思う。もう誰かに急かされるのは懲り懲りだ!
ひのえうま
2026年の今年は「丙午(ひのえうま)」の年。私は翌年の未(ひつじ)年早生まれだが、同学年は60年前のひのえうま生まれ。「ひのえうま生まれの女は気性が強くて男を殺す」なんていう迷信のおかげで人口グラフで見ると出生率がひときわ下がっている年代。長年この事実を面白がっていたけれど、よくよく考えると、なんと迷信に弱いのだろうとあきれてしまう。日本人ってきっと、非科学的なことが大好きなのだ。
とはいっても、小学校のとき、我々の学年はとくに人数が多かった。そして、ひとりひとり友だちの顔を思い出してみても、この学年の女性は格別に穏やかで、控えめで、我慢強いタイプばかりで、八百屋お七みたいな激型型は皆無であった(私が出会った丙午女子に限る)。
少子化のご時世であるせいか、旧年中も年頭も、丙午の話題はほとんど聞かなかった。もう迷信に惑わされるような人もいないだろうけど。今年の出生率はいかがなりましょうか?
ねずみのように、ちまちま、少しずつ。
一昨年の暮れのことになるけど。我が家にねずみが出た。夜中に夫が「なんか音がする」と言う。泥棒かと何度も電気をつけ、玄関台所を見に行ったが何もない。しかし朝、流しに糞害を確認。
厳戒態勢のその晩、また夫が「チューチュー、って言ってる!」と。寝ぼけ眼で電気をつけキッチンに行くと、いた。まぎれもなく、尻尾のあるグレイのねずみが、台所の隅にいた。そして、落ち着いた様子で、キッチンの隅で私が再生水耕栽培していたレタスやセリを、かじっていた。
ゴキブリ同様、一度見た獲物は逃がさないが信条。自分でもよくやったと思うが、ねずみとの一対一の勝負の末、台所の隅に追い詰めて、プラスチックのケースに捕獲。
でもねずみはかわいかった。おむすびころりんなど、物語の挿絵のねずみそのもの。ターシャ・テューダーなら遊ばせておくだろうが、東京の住宅街でそんなことできない。プラスチックのフタを開けようと何度もねずみは飛びかかって騒ぎ、ふと見れば立ち上がって手を合わせている。ケースを覗きこんだ夫、「オレを見て「助けてください」って言ってる!」。ごめんなさい。プラスチックケースに入れたまま、極寒の庭に放置して殺すことにした。
結局、とりもちのようなねずみトラップを買ってきて、その日から3日かけて、計3匹のねずみを…………。
ろくに兵糧もない我が家の台所に迷い出て、食べるものがないから、少しだけ芽を出したレタスやセリをかじったり、ガスレンジに吹きこぼれたおかゆの乾いたのをなめたり。私の手作りのボロボロのミトンをつたって何度も失敗しながら(遊んでいたのか?)床に下りていたねずみ。 そのせいで簡単にプラスチックケースにはまってしまった。なんともかわいいねずみだったのだけど。
でも物語のねずみと現実生活のねずみとは違う。自然界、無用の情けは危険なり。でも、熊退治よりは、まし。
後日。
外国の芸術家のインスタで、すてきなイラストレーションを見つけた。
ねずみさんが自分の家で、本を読んで何か書き物をしているイラスト。部屋には本棚があり、植木鉢が並び、洗濯物は日に干されている。働き者で勤勉なねずみさんの日常の様子が浮かぶ。(その絵が欲しかったのだが、海外の方でどうしたらいいかわからないままになってしまって残念。)
仕事も家事も、ちまちま少しずつやればいいのだ。
私は長いこと、家事と読書や仕事等の知的作業が折り合いを付けられないでいた。仕事をすると家事をしなきゃと焦り、家事をすると仕事をしなくちゃと焦っていた。それがなぜか、この絵を見て、このねずみさんのように少しずつやっていけばいいね、ととても気持ちがラクになった。日々、洗濯をし、植物の世話をし、そしてお茶を入れて、少し書き物をする。本を読む。
きっと、日々の家事に追われている人たち誰もが、私のようなほっとした気持ちになる、そう思って、このイマジネーション膨らむ絵を友だちにあげる用にコピーもした。
夫にも見せた。「あんた、ねずみ殺したでしょ?」。ハイそうです。
あれから私の心の中には、ご供養のように(?)、働き者のねずみさんがいる。ちまちま、ちまちま、何事も少しずつ。去年一年、家事は少しずつやったかな。今年からは、書くほうも少しずつちまちま、やっていこう、と思っているところ。






