(※長いです)
映画「砂の器」を観た。
加藤嘉がすごい、どうしても観てほしい、と、ひとりでBS テレビでやっていた映画「砂の器」を観た夫が言うので、録画を視聴。
見終わっても、加藤嘉のつぶらな目が頭から離れない。主演は刑事役の丹波哲郎のほか重要な役どころの豪華俳優が出演しているというのに、頭の中は、加藤嘉ばかりが心に残ってしまう。とんでもないものを観てしまったと思った。
1974年公開、松本清張原作、野村芳太郎監督、橋本忍、山田洋次脚本の大ヒット映画。
映画版の筋はこう。
東京、蒲田で男が殺された事件を追う刑事は、聞き込みから、被害者が殺される前に若い男と話していたこと、その時の被害者の訛り、口にしていた言葉から、かつて被害者がいた村を割り出す。しかし、被害者は人柄のよい、きわめて善良な巡査で、恨みをかうような人物ではなく、東京にも縁はなかった。20年程前、その巡査がいた村に、遍路の末たどりついた父子がいた。らい病(ハンセン病)となって故郷を追われた父がひとり息子を連れ、行き倒れとなったのだ。らい病への差別意識がひどかった時代のことである。被害者は、その父子を説得し、父親を療養所へ送り、子どもを保護していた。そして、この子どもこそ、捜査線上に上がっていた、被害者が殺される直前に会っていた男、新進気鋭の天才音楽家だった。――――
この映画の肝は、後半、刑事が犯人を割り出したあと、容疑者の背景が語られる場面で流れる、旅する父子の映像だ。村に行けば村人に小突かれ、子どもたちにいじめられる。父子は人目につかない場所に隠れ、わずかな食事を分け合って食べ、寒いときにはお互いにしがみついて眠る。美しい日本の四季の風景の中を、ふたりでさまよい歩く。
病の父親は力尽き、ほとんど行き倒れとなってたどり着いた村で、心優しい巡査に保護されるのだ。巡査に説得され、ついに父親は子を巡査に預け、療養所に行くことを承知する。父とわかれ、巡査夫妻と暮らし始めたが、しかし、子どもは逃走する。子どもは大阪で奉公人となったあと、空襲や戦後のどさくさを経て戸籍を変更して名前を変え、進学し、作曲の才能を開花させていく。
名声をつかみ、大物政治家の娘と婚約し、政治家の協力を得て作った大作を発表する、栄光の晴れ舞台の直前に、晴天の霹靂、あの巡査が訪ねてくる。旅先でたまたま現在の彼の写真を見つけ、その足で東京までやってきた。彼はこれまで療養所の父親に、必ず息子に会える日が来る、と手紙を出して励まし続け、失踪した子どもを探し続けていた。「なぜ、お父さんに会いに行かない、お父さんは待っているぞ」切々と訴えたのだ。犯行はその直後だった。
作曲家には事件の証拠の隠蔽を手伝った昔からの恋人がいた。あなたの子を妊娠した、ひとりで育てます言う恋人に、作曲家は絶対にダメだと中絶をせまる。口論になって別れたあと、恋人は流産し、出血で死んでしまう。後日作曲家は恋人のアパートを訪ねたが、その指紋で足がつく。
晴れの舞台で、音楽家は「宿命」と名付けられた渾身の一曲を披露する。そのステージの裾に、逮捕状を持った刑事が控えていた。
推理ものなので、主役は刑事であるところの丹波哲郎、犯人であるところの加藤剛のはずなのだが、頭に残るのは、父親役の加藤嘉とその子役のほうだ。というか、それしか残らない。
父と子がふたりで旅をする場面、療養所に送られる日、父親が横たわった荷台から起きて、息子を見つめる目。やせこけた加藤嘉の丸い目が、目に焼き付いてはなれない。最後に、刑事がやってきて、容疑者の作曲家の写真を出す。息子であることに気づいて嗚咽しながらも、父親は「知らん」と言い張る。思い返すだけで胸がつまるクライマックスだ。
映画自体は、前半が長すぎるし、推理もとってつけたような感じだし、第一、身寄りのない子どもが音楽家として大成するという話はあまりにも現実味がない。それでも、この映画が支持され圧倒的に評価されたのは、父と子の旅して歩く姿に誰もが心を奪われるからだ。ぼろぼろの乞食同然の姿の父親が子どもを慈しみ、子どもも父だけをたよりについていく映像を観るうちに、忘れていた感情がよみがえってくる。幼いころ食べさせてもらったご飯、抱いてもらったぬくもり、親への思慕、幼い日々への強烈な懐かしさがこみあげてくる。
映画を観て、これにかなり「砂の器」について書かれていたはず、と、以前読んだ春日太一著『鬼の筆』を取り出した。「羅生門」「七人の侍」「八甲田山」等の脚本で知られる橋本忍の評伝。確認だけするつもりが、読み始めて止まらない。
以前ざっと読んだときには、その真価がわかっていなかった。というか、この本の真価は、映画「砂の器」とセットでないと理解できないのでは?と唸ってしまった。(まぁ脚本家の代表作なのだから当たり前のことなのだが)
本には、どうやって映画が作られたかがかなり詳しく記されている。
松本清張から、読売新聞の連載が始まる時点ですでに、監督の野村芳太郎と橋本忍に映画化の話があった。承知したものの、しかし、内容がまったく面白くない。もうやめようかと思いながら山田洋次と舞台となる島根に出かけた先で、橋本忍は、これは父子の旅の話にしよう!これだけで映画が出来た、と確信し、あっという間に台本もできたのだという。
しかし、ホンはできたが、松竹が難色を示し、企画は頓挫してしまう。
その後、橋本忍は父を亡くす。父が枕元に置いていた脚本が『砂の器』。遺言が「これは当たるよ」。映画会社は渋り続けたため、橋本忍はついに、自らプロダクションを立ち上げる。紆余曲折ののち、やっと企画が動き出す。
映画では父子の旅は目が離せないシーンなのに、じつは松本清張の原作では、たった3行しかない。橋本忍はシーンのロケに随行し、編集も自ら行い、圧巻の父子の旅のフィルムを作り上げた。「絶対に当たる」と、賭けた。フタを開けてみれば予想以上の大ヒットとなる。
橋本忍脚本の作品は、黒澤作品しかまともに観ていなかった私が、この評伝をなぜ読んだかというと、だいぶ前に新聞で読んだ、弟子であった山田洋次の語るところの橋本忍像がたいへんな職人気質だったため、職人のように書き物をするひと、ということで興味をひかれたから。ところがこの評伝を読むと、職人のように書くことはむろんその通りだったが、何より、イチかバチかの勝負師として書かれていた。それはかなり意外だった。そして何より、「砂の器」大ヒットのために、東宝に頼まれて脚本を書いた「人間革命」のよしみで創価学会を動員していたということもかなり驚いた(というか最初読んだときは映画を観るときにいつもクレジットにあった「シナノ企画」とはそのことだったのか、とたいへんショックを受けた)。
橋本忍が勝負師になった理由は、芝居小屋を経営していた父親の影響だった。興業の世界は、勝つか負けるか。客が入れば大儲け、外れれば財産を失う。しかし父親は当たる当たらないの嗅覚がバツグンにきき、芝居小屋は繁盛し、橋本忍が脚本家として東京に居を構えるまで商売をしていたというから相当なものである。小さいときから父親の商売を間近で観ていた橋本忍にとって、己の脚本で人が呼べるか一か八かの大勝負は、父親と一緒に旅をしているようなものだったのかもしれない、とも思えてくる。
思いがけず再読できて、分厚い本を閉じて、初めて、本のカバーが、映画「砂の器」のポスターだったことに気がついた。帯が邪魔していて気にとめていなかった。
著者は、極力私的なイマジネーションを排除して、事実を詳細に検証しながら書くことに徹している。ざっと駆け足で読んではもったいない、個別の作品を知った上でじっくり読むべきだったと思った。インタビューの言葉が多く資料的価値も高く、何度読んでも発見があって面白い。大宅賞にふさわしい名著、橋本忍脚本の作品を観る度に、読み返すことになると思う。
『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』春日太一 文藝春秋
『砂の器』映画化に際して、松竹が映画化を渋ったのは、ハンセン病のことを扱っていたからだという。
『砂の器』を観たあと、その時期のハンセン病のことについて調べた。すぐに以下の記事がヒットする。
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n278/n278015.html
「文学にみる障害者像 松本清張著『砂の器』とハンセン病」著・荒井裕樹
という文章を読むことができ、『砂の器』の背景を知ることができる。かつてハンセン病はらい病とよばれ、「業病(前世の罪の報い)」であり、「悪しき血筋による病」という迷信があった。ちょうどこの作品の父子の旅の舞台となる昭和10年代は、らい予防法のもと、無癩県運動という患者を療養所に送ることをしていた時代で、ひときわ、らい患者への差別迫害がひどかった時代であることがわかりやすく書かれている。
その文章によれば、『砂の器』は、テレビ局により2回ドラマ化されているという。(2回以上らしい)。私はいずれも観ていないが、ともに、父親の病気はハンセン病ではなく、ひとつは精神障害者、より新しい作品は病気ではなく「31人殺し」の犯罪者として設定されているというから驚く。人権問題で病気の扱いが難しくなっているからとはいえ、どうなのだろうか。
また、先の文章には、松本清張によってこの作品が書かれたのは、昭和35年、すでにハンセン病は科学的治療法が確立しており、患者たちの権利獲得の運動も始まっている。その時代であるにも関わらず、犯人にとって殺人を犯すほどの「社会的負性」としてハンセン病が扱われていることへの疑問が呈されている。映画公開はさらに9年後であり、脚本によって幾分考慮されているものになっているとも。
たしかに、昭和22年から特効薬の使用は開始され、治療法は確立してはいた。けれど、昭和35年時点、映画公開時の49年になってもまだ、法律「らい予防法」は戦前の隔離法のままであり、優生保護法によって患者は不妊手術や中絶を強制されていた。この優生保護法、らい予防法が廃止されたのは、恐るべし、1996年、平成8年である。このときようやく、病名も「らい病」から「ハンセン病」にあらためられた。「らい病」の名称とともに科学的根拠のない人権無視、優生思想の法律が、ついこの間まで居座っていたことを忘れてはならないだろう。
そもそも、この作品の核は、「優しい巡査を殺さなければならなかった程の犯人の生い立ちの不幸」、だけではないはずだ。
ハンセン病は皮膚に症状が出て治らない病気のため、昔から忌み嫌われる病気であったという。しかし、感染力が弱いことは周知の事実だったのだろう、古くは奥座敷や離れ小屋などで、ひっそりと暮らしていた例も多かったようだ。家族の迷惑にならないよう、『砂の器』のように家や村を出て旅をする「放浪癩」と呼ばれる人もたくさんいたというが、それは江戸時代終盤からともいう。さかのぼって1600年、関ヶ原で小早川秀秋の裏切りにより敗北した大谷𠮷継は、時代ものではよく白いかぶり物をして描かれるが、ハンセン病を患っていたといわれる。大将とはいえ、とくに隔離もされずいる様子が描かれる。
ところが、明治時代になると、少しずつ状況が変わってくる。1897年の伝染病予防法につづき、1907年(明治40年)、「癩予防ニ関スル件」という法律が制定され、浮浪する患者の隔離が始まるのだ。日露戦争に勝利し、欧米列強に肩を並べる一等国としては、病人がふらふら歩いていては困る、と。また、徴兵制のために検査で病気が発覚し、隔離される例も増えた。次々と病気の原因菌が発見された時代だ。北里柴三郎はらい病の患者を隔離すべしと強く訴えていたひとりである。
病の原因菌が発見され、国家により法律が作られたことで、完全に隔離されるべき病となってしまった。富国強兵の流れがそれを後押しした。江戸時代にはひっそり暮らしていた患者たちが、社会にとって許されない、排除される存在になっていったのだ。
昭和になると、大正天皇の后、貞明皇后からの資金をもとに、昭和8年「癩予防協会」が発足、無癩県運動という社会運動が始まって各県に広がったことで、さらに状況はひどくなる。患者をみつけて密告し、療養所に送るという、激しい差別が始まる。ハンセン病は「国辱」とされ、民族浄化のため、患者狩りが行われた。
昭和20年、戦争が終わり、日本は民主国家となった。民主的な憲法も制定された。昭和22年には、特効薬の使用も始まる。しかし、そのあとも、この無癩県運動は続いていく。戦後、患者の収容の仕事は警察から保健所に変わった。じつは強制隔離が徹底したのは、戦後なのだ。
戦時中のナチス譲りの国民優生法は、昭和23年に優生保護法にあらためられた。しかし実質的には人口抑制のため人口中絶を合法化するための法律であり、そこには遺伝的疾患として、ハンセン病も対象として明文化されたのだ。これをもとに、患者に対する強制的な不妊・中絶手術が合法化され、隔離政策は徹底され、ますますハンセン病への差別が強くなっていく。息子がハンセン病であることから一家心中が起こるなど、患者が出た家族が差別の対象となってしまう、悲劇的な事件も多かった。
ハンセン病は、症状の重い患者と、免疫機構が確立していない幼児が長く接触した場合、感染する場合がある。通常は自然免疫があれば、まず感染しない。また、感染しても症状が出ないことがほとんどである。しかも昭和22年からは特効薬が使用されるようになり、治療法が確立している。感染力はきわめて弱いし、遺伝ではなく細菌感染が原因であることがはっきりわかっていながら、非科学的なことが、「国策」として行われ続けていたのだ。
優生保護法、らい予防法が廃止されたのは、1996年、平成8年。
隔離されたまま高齢になり、病が治っても戻る場所もなく療養所で暮らすほかない人たちが多かった。そのような元ハンセン病患者のグループが、温泉旅館への宿泊を拒否された事件があった。これは2003年のことだ。抗議した元患者たちに対し、全国から批難の手紙や電話が殺到したという。差別意識は形を変えて居座り続ける。恐ろしいことだと思う。
昭和の時代は、ハンセン病を、隔離するうつる病気というだけではなく、優生保護法のために、遺伝する病気、血筋の病気という非科学的な迷信が強調され、ことさら信じられていた時代だったのだ。だから、『砂の器』の犯人は、何が何でも出自を隠す必要があった。映画の中の、犯人が恋人に中絶を迫るシーンでは、遺伝、血筋の病気という偏見による苦悩をにじませている演出に見えた。
何の罪もない人が、病気にかかったということだけで、何もかも奪われ、社会から抹殺されてしまう。自分だけではなく、家族、子孫まで。これは「宿命」だろうか? 国の政策によって、すべてを奪われた犠牲者、被害者だ。
このような背景を考えると、善良で心優しい巡査が、そうは見えなくなる。病気の父親を説得して療養所に行かせ、そして励ましの手紙を出し続ける。法令に基づいて役割を果たしたのだ。江戸時代だったら、心優しく施しだけをして放っておけばいいことだろう。国家が、法律が、西洋医学の進歩が、彼にそうさせた。ひきとったばかりの子どもを、巡査は風呂に入れてゴシゴシ洗い、髪の毛をバリカンで剃り上げる。衛生業務は保健所のない当時、警察の仕事であった。善きこととして、彼はそれをやっている。その洗い方にはうっすら狂気が見える。人格者である巡査を、映画では緒形拳が演じている。
何度も映画化が頓挫したのは、ハンセン病の患者の会から制作中止の要請があったからとされていた。最終的には、制作側の、偏見を打破する役割をさせてほしい、の意図をくんでもらい、ラストシーンに字幕を流すことを条件に了承を得たという。そのような事情が脚本にどんな影響を与えているかはわからない。けれど、映画版では、善意の人がよかれと思ってやっていることが、知らぬうちに国家の歯車、手先となり、知らぬうちに人を差別し、排除し、追い詰めていることがあるのだ、ということを、とくに強調しているように思える。
松本清張は、この原作を改変された映画を、自作映画でもっとも素晴らしいと絶賛していたそうだ。
脚本家橋本忍の評伝『鬼の筆』の冒頭には、この脚本家のストーリーテリングの原点となる強烈なエピソードが書かれている。
橋本忍は幼少時、祖母にせがんで同じ昔話を何度も話してもらった。それは明治初期、維新の時代、年貢半減を県庁に認めさせるため地元で起こった一揆の話だ。凄惨な騒動の様子から、クライマックス首謀者の処刑シーンまで、詳細に語られるこの理不尽な話を、祖母は、いつも同じ文句で締めくくっていたそうだ。昔から一揆をしたら首を斬られるが、願いの一部は聞いてもらえた。が、明治の政府は首は斬るが、願いは一切聞かない、と。「先にいきゃいくほどムゴうなる、それがこの世じゃ」
近代国家というものは、人を踏みつけにして回っていく。そしてそれはどんどんひどくなる。橋本忍は青年時代、日本国が戦争に突き進む中で実感を持って見てきたにちがいない。
二年以内に死ぬと言われていたのに結核の療養所から逃げだし、役人になるのはイヤだから大学にも行かない、という橋本忍は国家というものを信じていない。
「だから、今にみんなの持っているお金が全部封鎖されて、一銭も使えないということが来るかもしれない。そんなことは、国家というのは何でも平気でやるからね、一番怖いことをやるんだ」(『鬼の筆』)
子どものとき、興行師の父親の背中を見続け、「無法な生き方がひどく気楽で自由で、羨望として心に焼き付いていた」という、橋本忍は、というロケ地でエキストラたちがゴザに座ってメイクしている姿を見て、「胸が張り裂けるほどの懐かしさ」を覚えたという。長期のロケ撮影での昼食では、監督やスターたちとロケバス出たベルのではなく、必ず、スタッフとともに外で弁当を食べていたそうだ。
「座った場所が食事スペースになる―――。そんな経験を橋本は、『これほど楽しいことはなかった』と振り返る。それこそが、「自由な何か」の正体だった。」(『鬼の筆』)
映画『砂の器』は、文化大革命で血統により人民の階級が決定され、そのため親子の断絶を生み、精神的な「孤児」を生んでしまった文革後の中国で、空前のヒットとなったそうだ(『砂の器映画の魔性 監督野村芳太郎と松本清張映画』樋口尚文 筑摩書房 劉文兵氏インタビューより)。父子の遍路の旅路は、追放された農村での貧困生活を思い出させて心にせまったとあったが、「あわれ」だから心を打つのではないのでは。食事を何よりも大切にする中国の人々が、加藤嘉と子役の男の子がおかゆを食べるシーンを見てどんなふうに思ったか、想像に難くない。親子でご飯を食べる、親子で寄り添って眠る。それこそが人にとって失ってはならない、一番大切なものなのではないかと思う。そして、それは人の権利であり、決して、誰にも、国家にも、それを奪う権利はない。
この絢爛豪華なメロドラマの感想は、人それぞれだろう。
私は、旅するように、自由に、生きよう、粗末なご飯でいい、家族とご飯を食べることを大切にしよう、と思った。
だんだん世界が悪くなる。気のせいか、そうじゃないみたいだ。でも、ご飯を自由に食べる権利は奪われてなるものか。
さあ、ここまで書いても、まだ父子旅の映像が頭から離れない……。








