『夜の道標』芦沢央 | 「おかまいなく。」

「おかまいなく。」

着地点を見失いがち。








※ネタバレ注意です。


先週土曜日のミニトーク&サイン会の余韻に浸ったまま翌日読了。

何の予定もなくおうちで過ごす幸せを噛みしめながら窓際で秋晴れの空を眺めながら読書。

冷たい牛乳を飲みながらノラ・ジョーンズをBGMに至福の時。

吹く風も心地良い。


各登場人物ごとに進む展開はとても読みやすかったが

つながりが早い段階で明確になり、少々驚く。

しかし、真相が見えない。

一歩手前まで来ているのに手探り状態。

たどり着きたい一心でさらに引き込まれる。


エピソードのことはミニトークでお話されていたが、想像を超える巧妙なエンディングに感涙。


豊子のことを書き切っていないことで、彼女の心境により思いを馳せることができた。

最も彼女に感情移入していたので、本来なら掘り下げて欲しい気持ちになるところであったが

どう削るか、何に差し替えるかと言う先生のお話(豊子のことではなかったが)理解出来、目論見通り、グッときてしまった。


少し脱線。

高校生の時から福祉の仕事に就きたいと志し、福祉系の大学受験の小論文対策として、国語の教員に毎日、福祉関連の新聞記事を選別し、自分の考えを記述して提出していた。

幾度の転居を繰り返し、実家はもう跡形も無いが、そのノートは手元に大切に保管してある。

エンディングの少し手前で霧が晴れたように手探り状態から脱し、ハッとなりスクラップノートを引っ張り出した。

高校三年、1989年11月18日の記事。

その頃の自分の意見の薄っぺらさに泣きたくなり、さらにその頃から30年近く過ぎているにもかかわらず、専門分野において確固たる意見も持っておらず、すでにやりがいを見失い惰性で過ごし、学んだことや見聞を広げてきたことが何にも結びついていない自分の現状に情けなくなってしまった。

大学で学んだことを再び理解しようと取り組まれている芦沢先生を見習って私も何か形に残るものを築きたくなった。



タイトルが「みちしるべ」ではなく「どうひょう」である意味を考えながら読んだが、阿久津は人生という大きな概念ではなく、現実的に行く先を示したものと捉えていたからかな、としか思い至らず。

再読したいので、その際にまた考えてみたい。



ヒリヒリしながらも雪の夜にぽっかり灯る我が家の灯りのような暖かさがあふれていた。