父と和解できました。 | 猫と病気と頭ン中と。

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猫、病気の事、日々の出来事などなど。


今回の私の休職は、以前もここで書きましたが、
父と妹の過剰な言動が原因で、寛解しつつあったのが、一気に悪化してしまったためのものです。

或る時、私の病気を理解してもらいたいが為に父に電話でいろいろ説明したのですが、
その時どうも父からすると言い過ぎてしまった面があったようで、
私が「こういう病気だから、お父さんのこういう行動は負担になる事もある」と言ったのを、
責められた、と思って反感買ってしまったようだったんですね。

今迄の人生で、祖母に甘やかされて育てられ、祖母が存命の頃、祖母が寝たきりになるまでは、
彼女の独裁政権だった実家。
早くに子供3人を残され、伴侶に先立たれてしまった祖母は、長子である父を、頼りにもし、溺愛していました。
だからか、自分で進めた息子のお見合いで1回で母に決めてしまったと言うのに、
母をずっと、恋敵のように見、家政婦のように扱っており、母の味方であった私まで嫌って、
時には「殺してやる」と包丁の切っ先を向けられたりもしました。

私はずっと、息をひそめ、いい子にしていなくてはなりませんでした。
たまたまそれなりに勉強が出来、素行も良かったためか学校でも優等生と見られ、それは両親の自慢でもあるようでした。

だから、大人になってからも、ずっといい子でいなければならなかった。

父は頑固で、自分の言い分を譲りません。いい人なのですが、生真面目で几帳面で、融通がきかないのです。
だからこそ私の言い分が、人生初の『親にも言われた事のない自分の弱点の追及』に聞こえたのでしょう。

私の電話での話に、父は何も言い返せませんでした。
そしてずっと、それから何か月も考え続けていたようでした。

その夏、帰省した際、妹に言われた一言が原因で私は死を考え始めるほど症状が悪化しました。
けれど、離れて暮らしているため、また私が隠していたため、両親は私の状態に全く気付きませんでした。

11月、夏に妹に自分を壊される前に、「冬休みまた帰るから」と言っていた私は、
怖くて妹と会いたくない為に、また、そのやりとりを一部始終見ていたのに何も言わなかった父に(母は病気の私を気遣ってかばってくれました)会いたくなくて、父にメールをしました。

「今年の冬は帰りません。どうぞもう一人の娘さんと、孫と一緒に過ごして下さい。私はその中に入れそうもありません」と。

3日経っても返信はありませんでした。私には、わざと無視しているのか、返信をためらっているのか知るすべはありません。でも、もう症状が悪化していた為、無視されたと思い込んでしまいました。

また父にメールしました。「もういいです。自分を見直して、と言ったのは撤回します。どうぞそのままの貴方でいて下さい。私は二度と、そちらに帰りません」
実際、心理的にその位追い詰められていたのです。
うつでそうなると、もう自虐的な考えしか浮かびません。きっと、私はもう要らないんだと。

3日後、仕事から帰ったら、父から手紙が来ていました。

その内容は、まさに私にとって爆弾でした。
父に意見した私を非難するような内容しか書かれていなかったのです。
曰く、「そんな事が言える神経が理解出来ない。何様だ」、と。

私は悟りました。父は、精神の病気で苦しんでいる私より、自分のプライドの方が大事なんだと。

母なら解ってくれるのに。
私は号泣しながら、母に固定電話で電話を掛けました。「もしもし?お母さん?」
混線してたのか、聞こえなかったのか、父が私と解ってわざやったのか、今でも分かりません。
でも、黙って電話は切られました。

もう駄目でした。死のうと思いました。「もういいです。死にます」と父の方にメールしました。
固定電話の線は抜き、携帯電話の電源は切りました。
でも、私は夏からずっと後を濁さず死ぬための準備をしていました。それはまだ、終わっていない、だから、まだ死ねない。

それで、見解が合わず6月頃から行かなくなっていた病院の代わりに、仕事しながらでも行ける病院をネットで探しました。
水曜だったので、体長不良で木曜は仕事を休ませてもらう事にし、当日でも診てもらえるところを探し回りました。

次の日、見付けた病院に掛かったら、診断は「休職最低3か月、今すぐ入院」。
そう、私はそれだけ悪化していたのです。
しかし、ひとりの方が楽ですから、自死はしませんからと頼み込み、入院は断りました。専門医と言えども、私はもう他人が怖くて誰とも接する事が出来なくなっていたのです。

金曜、午前だけ出社して、総務担当の方に事情を説明しました(直属の上司は休暇中でした)。
やり残した仕事をし、引継ぎを総務の方に説明して、現在の長い休職に入ったのでした。

その後、私は寝たきりで何も出来なくなりました。
それは既に夏から始まっていたので、頑張ってご飯を作っては後片付けが出来なかったりして、
キッチンは腐り果てていました。
家の中も、ゴミ屋敷までは程遠いけれど、きれい好きでいつも整理整頓している私にしては、
結構な惨状になっていました。

12月、落ち着いて来たので、医師に相談した上で母に助けに来てもらえないか、とメールをしました。
1回、ちょっと日にち掛かってもいい?と返事がきましたが、すぐにいつでも行くから言って、と再度メールがきました。

そして、12月の9日間程、母はアパートに来てくれました。
母は私の部屋の惨状に驚きつつも、全てを綺麗に片付け、私をなるべく休ませてくれ、調子のいい時には腹を割って話をし、時には近所にご飯を食べに行ったりしました。
みみこが大丈夫なら、一緒に映画観に行きたい、と母は言いましたが、それはムリだったので、手持ちのDVDを一緒に観たりしました。

母は、やっと私がどれだけ重症だったか理解したのでしょう、これからは、年に1~2回は、私が会社に戻ってからも私のところに来てくれる、と約束してくれました。


母はどうやら、私の様子を見て、父に盛大にお説教をしてくれたようでした。
(父からの手紙は、母に見せました)次の年、昨年の5月にまた手伝いに来てくれた時、そう言っていましたから。
しかし、父は後悔し反省はしても、私にどうやって伝えたらよいものか、迷っていたようです。
昨年の11月になっても、なんの音沙汰もありませんでした。

手紙爆弾がきてから、1年経っても何もなかったら、妹と父に絶縁状を送ろうと私は思っていました。
2人が怖くて、これから先、付き合ってゆける気がしなかったからです。
そんな時、或る方から或る一冊の本を勧められました。タイトルは、『うつ病の人の気持ちが解る本』。
私はこれが最後と、その本を母へ送る体で実家に郵送しました。母への誕生日プレゼントと一緒に。

どれだけ効果があるか判らなかったけれど、これも縁と試してみたんです。

その1週間後、父からまた手紙が届きました。
一瞬、私は1年前の出来事がフラッシュバックし、恐怖に襲われました。
しかし勇気を出して、気持ちを落ち着かせてから手紙を開封しました。

すると、そこには、あまりにも率直に後悔と謝罪の気持ちが書かれていました。
自分が短慮だった、申し訳ない、許して下さい、また以前の様にやりとりしたいと。

私は涙が止まりませんでした。
でもすぐには、怖さは消えませんでした。それだけ、病気である私にとっては1年前の出来事は衝撃だったんです。

それでも母とは電話でずっとやりとりしていましたから、母に電話しました。
ひとしきり話した後、母は私の気持ちに気付かず、父に電話を替わりました。
私はおそるおそる、父の話を聞きました。
すると、父は私の様子に気付かず、手紙の内容と同じことを言いました。母にお説教された事も含めて。
何とか穏やかに話を終え、再び母に電話を替わられました。
「お父さん、反省してるから」「うん、そうだね、ありがとう」


医師には、正直にまだ怖い、と言いました。
すると、それを正直に親に言ってやればいい、と言われました。
なので、母には電話で言いました。

でもやっぱり、父はもう仲直りしたと思って、母に電話すると話をしたりしてきます。
私は苦悩していました。


それが解けたのは、やっと最近のこと。
母が電話でタマ(仮名)の声を聞きたがるので、しょうがないなぁ、と思っていたのですが、
母によると、父も「タマ(仮名)の声聞きたいなぁ」と言っていた、というのを聞いたから。

笑ってしまいました。
実家にいた頃は、どんなに頼んでも動物なんて飼わせてもらえなかったのに、
娘が猫と暮らし始めて、母に画像とか動画とか描いた絵を添付してメール送信するようになったら、
途端に孫が出来たみたいに可愛いと思い始めるなんて。

同じ猫好きなら、凍っていた心も融けようというものです。


そういう訳で、私の中ではやっと、最近父と仲直り出来ました。
これからは、私のこのブログにも時々は登場することでしょう。



☆ おまけ ・ 本日の猫 ☆ 相変らず、あられもない姿で寝ています。男の子だから、別にいいのかな。

 

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